創世記18章16節~33節、 ルカ23章34節、平和の共同体の心得「執り成す」、讃美歌21:288、499,505 

罪の結果
罪を犯すということは、苦しみが伴います。罪の報酬は死であるといわれているように、死に至る病であると思います。わたしも最近罪を犯してしまいました。先月仙台まで出張だったのですが、鳴子経由で帰って、ガソリン代を施設に請求してしまったのです。多く請求したと思い、仙台市内で使ったタウシー代1500円は請求しませんでしたが、なんとも騙したような気持ちになって心が優れませんでした。帰りに鳴子によって来ましたが、交通費の請求どうしたらよいでしょうか?と会計に相談すればよかった、と思いました。牧師たるもの、いけないことをしてしまったと反省、悔い改めているわけです。

ソドムとゴモラ
これは、繁栄の都市、しかしながら罪の結果滅びた街として創世記には描かれています。創世記編集はバビロン捕囚時あたりにされたと考えられますので、イスラエルの国が滅ぼされたのが、人の罪の故であり、そこから、わたしたちは罪を犯さない生活が、ひとりひとりを生かし、社会を創造していき、滅びに至らない、永遠の住家ともなりうるということ知るようになります。

わたしたちの世はソドム
今、わたしたちは主を信じ、礼拝を守れる恵みを感謝していますが、しかし、この世はまったく罪のない世かといいますとそうではありません。毎日のように、盗み、殺傷事件、詐欺などがあるようですし、経済的にも競争が激しく今は円安ですが、それによって日本の輸出の収入が減り、日毎の糧を得るのに困ってしまう人々も多く出てくる状態かもしれません。お金のために両親の年金をあてにして死んでも親が生きているようにしてしまう人々もなんと多くいることでしょう。中国では民主化を訴えた劉曉派(りゅうぎょうは)さんがノーベル平和賞を受賞しましたが、中国では政治犯として刑務所に拘留されております。わたしたちの世界はまだ罪の世界、ソドムと同じような、ソドムに近い世界に住んでいるといっても過言ではないと思います。わたしも先ほど話したような罪を犯してしまいましたし。新約聖書にはマタイ11章20--24でカファルナウムはソドムの方がましだとさえ言われています。

アブラハムと神のしたこと
今日の聖書の箇所は、アブラハムがソドムについて執り成しをしていきます。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に50人いるとしても、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目にあわせるようなことを、あなたはなされるはずはありません。まったくありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」と主に迫って行きます。そして主はその願いを聞き入れていきます。アブラアムはさらに50人の正しい者が45人でも町全体を許してくれるか、と神といます。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、50人の正しい者に5人足りないかもしれません。それでもあなたは5人たりないために町のすべてを滅ぼされますか。」といいます。主は「もし45人でも滅ぼさない」と。言います。アブラハムは重ねて言います「もしかすると40人しかいないかもしれません」主は言われた、「その40人のためわたしはそれをしない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し、言わせてください。もしかするとそこには30人しかいなかもしれません。」主は言われた。「もし30人いるならわたしはそれをしない」
アブラハムはいいます。「あえて主に申し上げます。もしかすると20人しかいないかもしれません」主は言われた。「その20人のためにわたしは滅ぼさない」アブラハムは言われた。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると10人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その10人のために私は滅ぼさない」
神との交渉をしてくのですね。ソドムの町全体を滅びあら救い出せるようにとの執り成しです。

アブラアムの行為は、滅びからソドムの町全体を神が救い出されるようにと神に申し上げたということです。救いの執り成しをしました。ここが本日重要なことでだと思います。

アブラハムは自分の罪だけを赦してほしいとは申しでず、甥のロトの住んでいる場所ではありますが、アブラハムはソドム全体を救ってほしいと神に願うのです。他者の救いを神に申し上げることをアブラハム、信仰の父と言われるアブラハムは成されました。そして、このところは、19節にありますように、
アブラハムに主の正義に従わせることを子孫に伝えさせるためであるかかれています。主の正義、本日のと聖書の箇所も、主の正義とは何かを示している所でも在りましょう。ここから考えますに、神の正義とは正しい人といっしょに罪人を滅ぼさない、ということとして示されています。人間の義は、勧善懲悪、善人は褒められ、悪人は懲らしめられるということです。これはまちがってなかのように思います。しかし、神の義は善人がいる故に、悪人が赦されるということになります。

イエスの十字架
神の義、それは赦しです。この赦しはキリスト教の神とはどういうものかということを端的に表してます。神様は徹頭徹尾赦す神様です。人がどんなことをしても赦す神様です。その証拠がイエスの十字架の死なのです。人には赦すことがなかなか難しいようです。裁くことはよくします。全部赦す神なんていらない、あったら、問題だと思い、人はイエスを十字架につけました。赦しの神を全否定しました。しかし、イエスは十字架上で語ります。「主よ、彼らを御赦しください。自分で何をしているのか分からないからです」。イエスは死に及ぶまで、十字架につけた張本人である、敵である私たち人間一人一人を赦し、愛して下さいました。復活し、今はわたしたちの目には見えませんが、聖霊という霊となり今もこの場で私たちと共にいて下さる神です。

そして、イエスは私たちへ「互いに愛し合いなさい、赦しあいなさい」と命じ、これこそ、もっとも人間がしなくてはならない道であり、どのような道より尊い、重要な、最高の道であるということを聖書は語っています。

この赦し、愛するということは、まあ、いい、好きなようにしなさい、私には関係ありませんということではありません。今日聖書で拝読しましたように、かなりの忍耐が必要な行為です。

人にはできない、愛し合う行為、赦し合う行為をなぜ、私たちに神は命ずるのか、それは、聖霊となった神が私たちと共にいて下さるからです。また、わたしたちの体は神の宿る神殿だとも聖書で言われているからです。自分が赦しあえないところは、神がしてくださる、そういうところに、完全な赦し合いがなされ、また、信じていくところにも、本当に赦し合うことができるのだと思います。

そして、この赦しあうことは、新しい事柄を、創り出します。それは、平和です。

アブラハムは他者の救いのために神伊申し出ました。わたしたちキリスト者もアブラハムの子孫です。信仰の父と言われるアブラハムのこの執り成しの神への申し出をわたしたちもしていうようにと意図されてここに示されているように思います。他者の罪を赦していくところに、ソドムのような罪の町も滅ぼされず、ほろぼされないだけではなく、平和が塑像されていく希望を、わたしたちは新約聖書に示されてる、イエスの十字架から知ることができると思います。

人の罪が赦されるように神に求める執り成し、わたしたち信仰者がこの執り成しを神にお願いし、そして、自分自身も他者の罪を赦す執り成しをしていくところに、滅びを脱して、平和が創造され、そして、罪を犯した者は、自分の罪に気づき、悔い改めていけるように思うのです。
これは自分の今回の交通費の上乗せ請求の出来事を通して、もういたしません。御赦しください。と祈るものです。

罪の赦しのとりなしは、神の本質でまり、人を滅び~救い出し、平和を創造し、さらに罪を犯した人を悔い改めに導く、神業です。