平和の共同体の心得 隔てを超えて 創世記17章1節~25節、ローマの信徒への手紙2章17節~29節 2005年5月14日にイタリアのアッシジの聖フランチェスコ聖堂で、お坊さんと神父さん、そして雅楽師による前代未聞のコラボレーションが行われました。ひちりきでグレゴリア聖歌を演奏してパイプオルガンやお経とも共演しました。東儀秀樹と言う雅楽の奏者、その方は、ひちりきという日本の昔からあった、縦笛の楽器を、バイオリンやピアノ、シンセサイザーやエレキギターなどと一緒に演奏して人気を得た方です。 この、東儀秀樹さんのいっている言葉に「アウトオブボーダー」という言葉があります。これはどういうことかと言うと、ボーダーというのは境界、境目、隔てとでもいいましょうか、分け隔てできる境があって、こっちとそっちは異なる世界をつくる隔てです。アウトオブボーダーというのは、その隔てを超える、という意味であるといいます。東儀さんが雅楽とは違う、洋楽やジャズロック、さらにグレゴリア聖歌とも競演はしますが、雅楽という枠の中で、雅楽の楽器を演奏するという立場は、毅然としてもしつつ、その隔てを超えたところの世界とも、共に演奏できる、演奏するというような、思想のようです。 この話を聞きまして、いろいろな価値観の方々と、それぞれの価値観を失わずに、或はよりはっきり主張しながらでも、一緒に暮らすような、暮し方に応用できる考え方だと、感心していました。こと宗教になりますと何千という種類のものがあり、それらの方々と、暮しているわけですから、この多様な価値観を尊重しつつ、お互い支え合って暮らしていかねばならない状況にいやおうなくなっています。その知恵の一つとして、東儀さんのアウトオブボーダーの考え方はよいなと思っていました。 さて、今日の聖書の箇所ですが、アブラムが契約を受けた神の民の印として男にすべて、割礼を受けるようにと神から指示されます。ええ、なんでこんなことしなといけないんだ、いやだなあ、と思いますが、割礼ということをしないといけなくなったのが、イスラエルの民というわけで、この印がないものはイスラエル民族ではないということになってしまいます。その契約とは、「あなたは多くの国民の父となる。」ということです。なんと素晴らしいことでしょう。アブハムばっかり、選ばれて羨ましいですね。そして、さらに続いて神様の言葉があります。「あなたはアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者達があなたから出るであろう。」 アブラムの名前を変えなさい、ということを言われます。なぜ、名前を変えなければいけないのか、それは、1節にありますように、あなたは、わたしに従い、まったき人間になりなさい。とありますように、神から今のアブラムではだめだ。神に従うアブラムになれ、と言われたのです。名前を変えるということは、その人全てを変える、その人の本質を変える、という意味合いが在るそうです。ここでは、これまで見てきたような、神に対して、み旨をよく理解できず、子孫をサライとの間に与えると言われたのに、待ちきれず、信じきれず、奴隷の妾を持ってしまった、不信仰といいますか、誤った信仰といいますか、道徳的にも不忠実であったアブラム、ハガルに対しても平気で虐待に走ることを認めるアブラム、そういうアブラムに対して神は主に従順であれ、と言ったのでしょう。アブラムは「[神なる]父は高くいます」という意味でアブラハムは「多くの者の父」という意味です。ヘブライ語のアルファベットを入れ替えたようになっているそうですが。 名前を変えるように言われたのは、そのままの自分では神の契約を頂くには価しないから、変わりなさいというメッセージだと思います。そして、契約が続きます。 「わたしは、あなたとの間に、また、後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる」ということを語ります。そして男子はすべて割礼を受けるようにと命じられ、割礼が契約の印、契約書なら印鑑の役割を果たすとされました。割礼を受けないものはアブラハムの民、から断たれるという事が語られます。 神はアブラハムに更に続けます。 「あなたの妻サライは、名前をサライ(「私の王女」という意)ではなく、サラ(「王女」という意)と呼びなさい。私は彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となるものが、彼女から出る。」 アブラハムはひれ伏しますが、しかし、笑ってひそかに言いました。「百歳の男に子どもが生まれるだろうか。90歳のサラに子どもが産めるだろうか」と神のことばを受け入れることができずにいます。そして、ハガルの息子イシュマエルが跡取りになっていくことを捨てきれません、というより、子孫は目の前にいる13歳になって元気闊達なイシュマエルのことを思わないはずはありません。 神にアブラハムは語ります。 「どうか、イシュマエルが、御長く生き永らえますように」と言うのです。 神の回答はといいますと、 「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名づけなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」 ここで、割礼の契約に入るのは、イシュマエルとその子孫ではなく、イサクとその子孫である事を明確に示します。 しかし、です。「神はここで、イシュマエルについての願いをも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子ども増やし繁栄させる。彼は12人の首長の父となるであろう。わたしは彼を大いなる国民とする。」と語るのです! 今日の聖書のポイントはここなのです。割礼の契約者とはならない、イシュマエルをも祝福する神に注意したいと思います。もちろんイエスラエルの民族も祝福、永遠の契約を、頂く訳です。これは旧約聖書が特に強調していますし、その、ことが、聖書全体に示されていることでもあります。イエスもイスラエルの民族からでた人で割礼も受けています。神はイスラエル民族を救い、守り、祝福をもします。そして、これまでの、ユダヤ教もキリスト教も主張してきてることです。しかし、それ以外の、民を神はどうされているのか、ということが、ここに、示されていることです。同じように祝福をうけていくということが示されています。 割礼はイスラエルの民族で主から永遠の祝福を受けるという約束の印です。 しかし、その割礼の印がない、イスラエルの民族ではない民族は、どうかというと、同じように祝福を受けていけるということがここで示されています。イスラエルの民族を超えた主の救い、祝福の業を、すでに、旧約聖書で見出すことができます。これは、聖書編集者のエキュメニカル的神理解の何ものでもないと思います。驚くべきことです。 アブラハムは、割礼を家族の男子、奴隷や、家にいた男子全てに施します。契約外のイシュマエルまで手当たり次第、割礼を施していきました。これもアブラハムの思いが先走っている信仰ですね。名前を変えても相変わらず、主の言葉に従ったり、あざ笑ったって見たり、余計なことをしてしまったり、信仰のむらの多い人です。神はそういうどこにでもいるようなおじいさんの子孫に祝福を一方的に与えられる方でもあるということも分かることですね。 境界を越えた、神の祝福 本日の聖書の箇所から、イスラエルの民もそうでない民も、どちらも神は祝福する、かかわっていく事を示しています。しかし、イスラエルにはイスラエルの民族としての独特の特徴を保ちながらということをなさっているように思います。十把一絡げにして救うのではありません。それぞれの個性を重要視するように思われます。割礼を受けるものも、受けないものも、霊による割礼によって、霊による割礼というのは、神の本質に関わること、知ること、体験することでありまして、啓示ともいうべきものでしょう。啓示によって、神の本質に触れる、ということでありましょう。神の啓示によって、人々は、神の祝福、救い、赦し、愛に気づき、律法を知り、守り、他者を赦し、愛していくようになっていくのだと思います。実に、神の本質は、隔てを作りつつ、隔てを超えて、関わりを創る、平和創造の業でもあるということを知ることができます。 それぞれの違いを認め合い、平和を創ることの重要性。 わたしたちは、とかく、洗礼を受けた、教会に通っている、祈っている、献金をしていることなどで、他者との違いを頼りに、それでもって信仰と思っていませんでしょうか。自分の側の行為を、印を、信仰と取り違えていませんでしょうか。礼拝をしたから、神の恵みに与れる、洗礼を受けたから、祝福される、献金したから、いいことあるというようです。しかし、聖書は、わたし達の行いに関係なく、神側から一方的に祝福を与えているということを、旧約の創世記からしめしているではありませんか! イスラエルの民、ユダヤの民という特徴を与えながらです。たわしたちの信仰のはじめに神からの祝福があります。その気づき、体験があります。それから、祝福を受けたのだから、どういう形で、その祝福に対する御礼をするか、我々は、洗礼を受け、鳴子教会員となり、聖餐式を含む礼拝を、かけているところを補いながら、支え合いながら、守っていく。それが、わたしたちの、神様から与えられた、信仰者のありよう、教会形成、平和の形成であり、また、そういうものではない信仰のありようの方々、信仰のない方々、そういう方々とも、隔てを超えて、支え合い、赦しあい、平和な関わりを築いていく、そのような共同体がわたしたち鳴子教会、気仙沼集会の共同体であると思います。 全ての国民、特徴ある民族が、主の祝福について体験され、み旨に気づき、それぞれのあり方で、平和な世界創りに参加されますように願います。