平和の共同体の心得 敵対しても、平和に暮らす 創世記16章1節~16節 ヨハネによる福音書1章1節~4節 54 361 529 高校野球の季節になりまして、岩手県では一関学園が代表に決まりまして、甲子園での活躍が期待されていることでしょうね。スポーツって面白いですね。プロ野球、Jリーグなど、Wカップなどがありまして、大相撲など問題になることもありますが、まあ、あれだけ、敵対心をむき出しにしている、敵同士でないと成り立たないスポーツやゲームというものの人間社会の心の関係の一面を表すものかなあと思ったりしています。 聖書は旧約も新約も、究極には平和を含めた救いについて書かれている書であるというように捕らえることができます。そして、多様な価値が混在する世の中でのなかで、平和や救いが描かれています。ことに旧約聖書ではイスラエルの民が救われていくと言うことを中心に描かれていますが、しかし、旧約聖書をよく読んで行きますと、イスラエルだけの救いについていってるのではないと言うことに気づかされます。実に多様な民が神の創造の業によってなされ、それらの民すべてが救われていくという内容であると考えられるのです。 世をイスラエル民族だけにしない。これが人類ができてからいままで続いてきていることです。多様な言語、多様な民族、そして、多様な宗教と混在する中でイエスが現れ、また、さらに多様化が進んできたように思います。(2009年3月時点で日本政府が承認している国の数は192カ国です。これに日本を加えて193カ国と答えれば国内では妥当です。しかしここには北朝鮮が含まれていません。国連加盟国は192カ国ですが、北朝鮮を含みバチカンとコソボ共和国を含みません。世界の大多数の国から承認されている国の数としては、194カ国ということになります。)また、この多様化というのは、奇麗事ではなく、人の欲望、恨みつらみがひしめく煩悩だらけの人間社会から生れた、また、構成されているという、なんとも神の愛にはとど遠い人間世界での話です。そのような煩悩渦巻く世においては、多様化を認めることが、世を平和にならしめる、方法、戦略、知恵なのでしょう。今のイスラエルとパレスチナの争いでも、多様化を認め合えば、あの地に平和が示現することでしょう。 イスラエルとパレスチナの問題は旧約聖書の創世記にもすでに出てきている問題です。今日もその一端を見ることができる箇所でもあります。 本日の聖書の箇所では、アブラムの子孫を残すことにおける問題が書かれています。神様がアブラムに星の数だけ子孫を与えると話しました。しかし、アブラム86歳、サライ76歳、いくら神でも99歳と89歳の夫婦から子ども生ませるというのは、冗談や慰めの言葉として受け止めてもいいが、実際そんなことが起こるものなのかは、疑わしい、というより、無理だ。だから、神様の真意は、アブラムに妾を与えて子孫を作れということではないのだろうか?というようなことも考えたのではいでしょうか。サライがその作をアブラムに提案するのです。これは考え物ですね。いくら神のみ業と言え、他の人に孕ませてまで、よいのだろうか、と思ってしまいますが、サライとアブラムはそれを決行します。神の御旨であるということを心に思えば、こういう大胆な発想もでてきてもおかしくないのでしょう。信仰によって殉教する人々、聖戦だといって他者を殺害するものもいるくらいですから。アブラムやサライハ信仰の誤った用い方をしているように思われます。神の業を待たなければいけないのに、神の業を自分たちの意志でやってしまっているのです。 その結果、エジプト人の女奴隷ハガルに孕ませてしまいました。 さて、子どもができたましたが、次なる問題が生じます。それは身ごもったハガルがサライを見下げるようになってしまったのです。サライはたまりません。自分がまいた種だとはいえ、まさか、自分の奴隷から見下されようとは、思ってもいませんでした。サライはアブラムに言い寄り、ハガルに対し辛くあたりました。ハガルはそのあと、サライのもとを去っていきます。荒れ野を逃げていきました。しかし、カナンからエジプトへ向かうシェル街道の泉のほとりで主のみ使いに出会い、お告げを受けます。サライに仕えるように、戻るように言われます。そして、ハガルの子孫も数え切れないような子孫にするということを告げられるわけです。そして、ハガルから生まれる子どもをイシュマエルと名づけよ。と言われます。そして、そのイシュマエルは、全ての兄弟に敵対して暮らす。」と告げられるのです。 本日の問題はこの敵対して暮らす、ということです。 イシュマエルの子孫は、アラブ人となっていきます。アラビア語を話す人々という意味です。このなかの多くはイスラム教ですが、アラブ人の中にはユダヤ教徒もキリスト教徒もいます。 アラブ人というのは交戦好きなのかもしれません。 ここで、聖書の言わんことは何かを考えてみたいと思います。敵対して暮らすということはどういうことなのか? 戦争しろ、というのであろうか、 神が敵対する人々を作ったのだから、戦争、殺し合い、破壊しあうことはしかたがない、ということを言わんとしているのでしょうか? いいえ、そういうことではありますまい。 本日、ヨハネによる福音書1章1節を読んで頂きました。ここが、歴史の始まりを表している所です。初めに言葉があった。言葉は神であった。万物は言葉によってなった。言葉の内に命があった。とあります。 神が作ったものは命のあるような方向に進むはずです。敵対して暮らす、ということは,敵対することがあっても、お互い、生きる、ということでしょう。神は平和でもありますから、敵対しつつ、平和に暮らす、という意味に捕らえることの方がよさそうです。 この世においては、敵対する者同士が平和に暮らすような世の中にしてみなさい、やってごらんなさい、というお誘いなのだと思います。お誘いといいますか、お告げといいますか,お互い敵同士、平和に暮して御覧なさいという、神さまからの課題ですね。 新約聖書では、敵を愛しなさい、自分を迫害する者のために祝福を祈りなさい、とイエスが語っていました。そして、イエスは敵である人間と共に生きるために、全ての人の罪を赦しました。その証拠が十字架です。イエスは自分が十字架に付けられても、十字架につけた人々でさえ、「主よ、彼らを御赦しください。何をしているか分からないからです」と赦されました。敵対する者と平和に暮らすための方法は赦しあいです。徹頭徹尾赦しあう事でしょう。 敵対する者同士が暮らすためには赦し合いが必要なようですね。 神にはできるけど、人間にはできないのでしょうか? 聖書を見ますと、サライとハガルの場合はできたようです。 わたしたちの暮らしの中で、敵対しながら、平和に暮らすことを考えてきたでしょうか。 敵対するから、平和には暮せないとしか、考えてこなかったのではないでしょうか。 わたしたちの暮らしの中で、敵対しながらも平和に暮らす、暮し方をこれから、考えていきたいものです。スポーツとかゲームや芸術系のコンテストなども使い方によっては、敵対しつつ平和に暮らすことに役立っているのかもしれません。 世界のどこかで生じている紛争中の国と国、敵対している民族と民族、団体と団体、個人と個人、すべての平和を願うものです。