創世記15章1節~21節 
マルコによる福音書15章33節~39節)
平和な共同体の心得 苦しみからの解放

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 

人生には、苦しみがつき物です。釈迦も人生を死、老、病、苦と悟りました。 
物の本を見れば、天下を取り、征夷大将軍にのぼりつめた徳川家康も、「重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」と、死ぬまでずっと苦悩という重荷はおろせなかったと高森顕徹先生は書いておられます。
さらに、無類の楽天家と知られているゲーテでさえ、「結局、私の生活は苦痛と重荷にすぎなかったし、75年の全生涯で真に幸福であったのは4週間とはなかった」と嘆いていることや、自由奔放に生きたことで有名な女流作家の林芙美子も、「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」と言い残したり、夏目漱石の、「人間は生きて苦しむ為めの動物かも知れない」と妻への手紙に書いたことなど、たくさんの偉人も人生を苦と思っておりました。世の自殺者が3万人これも世が苦しみである事の証拠かもしれません。現実の生活をみても苦しみが多いのではありませんか。職場や地域に苦手な人がいる、とか、思うように予定が進まないとか、いろいろ、病気をしたり、怪我をしたり、災害災難にあったり、苦しみや悲しみを持って暮しているのが実情でしょう。

旧約聖書をみますと、主のことばは、いいことだけを告げません。むしろ苦しみを宣言されることもあります。本日の箇所もアブラムの子孫が400年の間奴隷として仕え、苦しむであろうと主が啓示をアブラムに与えます。
聖書は苦しみからの解放の書とも読めますから、苦しみを明確に言い当てます。そこから避けては通れない現実を示します。最高、最大の苦難がくるということも聖書に記されてます(マタイ24:3-28、マコ13:3-23、ルカ21:7-24)。

しかし、聖書は苦難からの脱出、救いの書として読むべき書でしょう。

イエスの十字架は神の苦しみ、ここに、苦しむ人は悲しむ人は、慰めを覚える、慰めだけではない、驚きを覚える、その驚きはありえないことが起こったという驚きです。人はこの驚きによって生きていくように思います。さらに、イエスの復活。驚きに継ぐ驚き、喜びの驚き。イエスは死では終わらないことを示した。復活することを示した。死から解放されたことを示したと思います。

アブラムハ子どもがなくて苦しんでいた、諦めてもいた、それが、主によって、星の数だけ子孫を与えるといわれました。これはどういうことか?アブラムから生まれる子孫が星、、の数だけになるということは、どういうことか?これは、アブラムが全人類の子孫になるということを意味しているのだと思われます。
アブラムはそれを信じます。

アブラムに次に主から「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる(7節)」ということばが与えられます。ここは、シャベの谷、王の谷付近のようです。エルサレムの近くです。この付近をアブラムに与えると主から言われますが、このときは、アブラムはすぐ信じず、「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを何によって知ることができましょうか」と尋ねます。
ここでは、すんなり、信じないで、その証拠を示せ、とのようなことを神に申し出ます。アブラムは信仰者の手本とされていますが、どうも、信じたり、疑ったり、どこにでもいるような普通の人だったようです。

しかし、神様はその要求に丁寧に答えてくれています。しかも、三歳の雌牛と三歳の雌山羊と三歳の雄羊、山鳩と鳩の雛を用意させ、真っ二つに切り裂き、それぞれを向かい合わせて置きました。鳥は切りさかないで置きました。神との契約を結ぶ儀式のようですが、
(エレミヤ34:18-20にもあります)、これは、契約を破った場合は、このようになるという意味です。また、これは、神側からの申し出ありますから、もし神がアブラムに土地を与えないなら、神がこのように2つに切り裂かれる、という意味です。17節に神がその契約を締結することを示していきます。日が沈み、暗闇がおおわれた頃、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り抜けた。」とあります。神が契約を結んだということです。さらにその土地というのはエジプトの川から大河ユーフラテスに至るまでの土地を与えると話されるのです。この地域は実際のイスラエルの範囲を超えています。
アブラムの子孫は天の星の数のようになるといったこと、与えられる土地が当時の全世界を表している事を考えますと、全世界を、神がどうするか、ということを示していると思われます。

全世界が苦難から救われる、ということでしょう。
イスラエルの民は異国、この国はエジプトでありましょうが、に400年の間奴隷として苦しめられますが、救いの時が訪れる。神のなさることは、苦しみからの救出である、ということを、ここでも、未来の予測といいますか、今も未来も苦しみから解放するか見えあることを示しており、アブラムにそのような神が、関わったということです。12節から16節は苦しみに遭うことを伝えますが、それは、4代目にやがて、戻ってこられることを示しています。出エジプトを前もって示しています。
神様は苦しみから救い出す神だ、それも、一方的に苦しみから救い出す神だということを示していると思います。それが、信仰強いとか、信仰が正しいというわけでもなく、むしろ、疑ったり、証拠を見せろというような、不信仰なアブラムであっても、苦しみから救い出す、ということをここでは言っているのだと思います。アブラムは信仰の父とされています。神の言葉を信じ、したがったからです。それによって神の御業に気付いた人でもあります。しかし、一方では、私たちと同じように、疑うようなときもありました。そういう人でも神の業が現われるという事、万人に救済の業が、かみから一方的に与えられるということにもとらえることができるのです、すでに旧約のこの場所で、でもです。

アブラムは子どもがないという苦しみが、全人類を子孫と得るという恵みを得ました。
主の救いはとてつもない大逆転なのです。
わたしたちの苦しみ、欠け、は主によりて、とてつもない恵みに変わるのです。

2000年の最大の苦しみ、人間にとっての欠けとはなんでしょうか。
神であるイエスを十字架に葬ったことではないでしょうか。
これほど、人間にとって、不幸はありません。「なぜ私を見捨てたのか」これは神を見捨てたのは人であるはずなのに、イエスは、なぜ、神が人を見捨てたのか。と叫びます。
人の最高の苦しみ・・・それは、神から見離される事なのだということではないのでしょうか。それをイエスは味わった、私たちに代わって・・・。もちろん、神ははじめから終わりまで人を見離しはしません。人が神を見離したのです。
しかし、神は大逆転をする方。最終的には全ての民が神を礼拝するようになると、神を賛美するようになるとヨハネの黙示録に示されています。裁きは神を信じない人がいなくなることでもあります。

わたしもイエスキリストを信じて歩んできました。山あり谷ありでした。今でもおもうようにいかないことがたくさんあります。しかし、不思議に守られてきています。苦しみから解放されているように思います。みなさんはいかがですか?
主は苦しみから、救うためにあるのだという、思いに、わたし自身、ありがたく思うものです。そして、いつか、イエスを全ての人が主と認め礼拝する日が来、全ての人が苦しみから解放され、平和がそこに実現することも信じていきましょう。