創世記14章1-24節 ヘブライ人の手紙7章1-3節、平和の王メルキゼデクの祝福

折がよくても悪くても福音を述べ伝えよ。という聖書のことばをご存知でしょう。
パウロがテモテという牧者に話したことばです。福音というのは良き知らせです。
救いがあるということを、わたしたちキリスト者は世がどのような状態にあろうと信じ、伝えなさというパウロの言葉に、わたしたちも聞きたいものです。

福音というのは、良き知らせ、イエスキリストのことです。わたしたちの創造主、救い主、十字架にかかり、罪を赦してくださった主イエス・キリスト、復活されて、私たちと共におり、生活での道を示してくれる聖霊、死をも滅ぼし永遠の命を与えるという約束をしてくれているイエス、そのような福音を信じ、伝えなさい、と私たちにパウロは勧めています。

聖書にはその福音が示されています。この聖書があるということが福音を伝えるうえで重要な役割を果たしています。この書を通して表せている福音、救いが最も大切なことです。
わたしたちはこの聖書から救いの真実を知ることができるという信仰的立場にあります。
そして、その救いの恵みへの応答として、信仰生活があり、礼拝と聖礼典を行い、愛の業に励むのです。

聖書がこの世に編集されたお蔭で、わたしたちは救い主の存在をよりはっきりとさせることができました。聖書があるという恵みをわたしはありがたいと思っている次第です。いかに世の中が恐怖と争いと滅びへと向かおうとしているように見えても、希望を与えてくれる救いが聖書に示されているからです。旧約聖書が編集されたのは、イスラエルがバビロニアに捕囚されたあたりに編集されたようです。イスラエルが屈辱を受けているときに、なぜ、このようなことになったのか、反省し、過去の出来事から学び、重要な出来事を採用していったのです。そして、主の指示を守るべきこととは何か、人がどうすれば、より良く生きることができるのかを整えていったのだと思われます。そのような観点から旧約聖書を見ますに、神の裁きというのは、現実に起こっているイスラエル民族や聖書編集者たちの、相手を滅ぼそうとし合う、争いの悲惨さを意味しており、祝福はお互い支えあい生きようとする、平和を意味しているとも受け取ることができます。そして、聖書はお互いが支え合って平和に暮らす生き方、福音を示し、それを訴えている書物だと考えられます。

さて、本日の聖書の箇所は創世記14章です。
ここでは、アブラムの民族へブライ民族意外のことが記されています。戦争、王たちの争いが描かれています。アブラムも巻き込まれる戦い。周囲は物騒で治安が悪かったようです。シンアル(バビロニア)の王アムラフェル、エラサルの王アルヨク(不明)、エラム(バビロニアの東にある国)の王ケドルアエメル(「ラガマル(神名)の僕」という意味のアラム語だが、エラムの王の記録には確認されていない)、ゴイムのディアドルはヒッタイト人(王国)の人名でディアドルという名の王はいたというが、ゴイムは諸国という意味で「ヒッタイト」の別名とは考えにくい)、これら4人の王が、5つの国の王と戦いをしたときのことである。5つの国と王とは、ソドムの王べラ、ゴモラの王ビルシャ、ツォベイムの王シャムエベル、アドマの王シンアブ、ツィボイムの王シャムエベル、ツィアルの王(ベラはツィアルの説明語)と戦ったときとあります。
これら5人の王はシデムの谷、塩の海で同盟を結んだ、とあります。これら5つの町の正確な位置は不明だが、死海の南端あたりだろうという研究者もいる。
この5つの国は12年間、ゲドルアエメルに支配されていたが、13年目に背きました。
14年目に、ケドルラオメルとその味方の王たちがきて、アシュテロト・カルナイムでレファイム人(カナンの先住民)を、その南のハムでズジム人(申命記2・20はレファイム人はアンモン人によってザムズミム人と呼ばれていたとする)を、シャべ・キルヤタイム(「キルヤタイムの野」という意味で、キルヤタイムはモアブの町。)でエミム人(申命記2・10-11によるとレファイム人のことで、モアブ人による呼び名)を、セイル(モアブの山岳地帯)の産地でフリ人(セイルに住んでいた人)を打ち、荒れ野に近いエル・ラバン(エラテ 紅海の北アカバ湾の都市)まで進んだ。彼らは転進して、エン・ミシュパト、すなわちカデシュに向かい、アマレク人の全領土とハツェツォン・タマル(歴代記下20・2によれば、死海の西岸にあるエン・ゲディの古名)に住むアモリ人(15章にカナンの先住民リストにある)を打った。
死海周辺を北東から南へ、そして、北西に向け北上、領土を獲得して巨大化、勢力を拡大するゲドルアメル王率いる連合軍に対し、背いた5つの同盟国が戦いを挑みました。さて、その結果、5人の王は逃げる羽目になりました。ソドムとゴモラの王は天然アスファルトの穴に落ちました。他の王は山に逃れました。ソドムとゴモラの財産や食料はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られました。

アブラムは甥のロトが捕らえられたことを知り、救出に向かいます。(ここで、逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て、そのことを知らせた。とあります。
≪ヘブライ人≫ということばは、外国人がイスラエル人を語る場合やイスラエル人が自分自身について外国人に語る時用いる。そのことから、この物語の起源はイスラエル外に求められるかもしれない)。アブラムは当時、アリム人のマムレという人の樫の木の傍らに住んでいた。マムレ(地名でもある)はエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと同盟を結んでいました。

アリム人はカナンの先住民の一つの民族です。アブラムはここで違う民族との共存、もしていた、と考えられます。戦いにも参加していき、運命共同体を形成していたようです。

 アブラムは自分の甥が捕虜となったのをしり、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者318人を召集し、ダン(イスラエルの最北あたり)まで追跡した。夜、彼と僕たちは分かれて敵を襲い、ダマスコの北のホバ(位置は不明)まで追跡した。アブラムはすべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻しました。

 アブラムがケトルラオメルとその味方の王たちを打ち破って帰ってきた時、ソドムの王はシャべの谷すなわち王の谷(エルサレムの近くにあった)まで彼を出迎えました。いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクもパンと葡萄酒を持ってきました。彼はアブラムを祝福していいました。
「天地の造り主、いと高き神に
 アブラムは祝福されますように
 敵をあなたの手に渡された
 いと高き神がたたえられますように。」
アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈りました。
 
ソドムの王はアブラムに
「人は私にお返しください。しかし、財産はお取りください。」と言ったが、アブラムはソドムの王に言いました。
「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手をあげて誓います。あなたの物はたとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』とあなたに言われたくありません。わたしは何もいりません。ただ、若い者達が食べたものと、わたしたちと共に戦った人々、すなわち、アネルとエシュコとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください」

<(共存社会、争い、アブラムの平和主義、アラムの共存社会へのメルキゼデクの祝福(ヘブライ人だけではなく、多様な価値観の民との共存)>

ここでメルキゼデクについて考えてみたいと思います。
このメルキゼデクは聖書では3箇所にしかできません。この創世記と詩編110編、ヘブライ人への手紙6章7章です。

アブラムは先住民世界に生きていたようです。まだ、ヘブライ民族ができる前の事です。
その社会では支配関係があったり、また、争いがあったりしました。アブラムの親族ロトは争いに巻き込まれ捕らえられてしまいましたが、アブラムは先住民や自分の親族の同盟部隊で敵を追い詰め、親族のロトを助け出します。そのとき、いと高き神に仕える祭司、サレムの王メルキゼデクがアブラムを祝福するのです。パンと葡萄酒をもってきて。アブラムはメルキゼデクには十分の一の捧げ物をささげるのです。そして、神に背いたソドムの王をも助けたことになり、王から財産を進呈されそうになるが、それを貰わない。

サレムの王メルキゼデクはへブライ人の手紙では、以下のように語られています。
「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻ってきたアブラハムを出迎え、そして、祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものに十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず、「義の王」、次に「サレムの王」つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の始めもなく、命の終わりもなく、神の子に似たものであって、永遠に祭司です(当時ユダヤ教ではレビ族から祭司がでた。イエスはユダ族の末裔。」

 永遠の祭司ということばは、詩編110編4節
 主は誓い、思い返されることはない。
 「わたしの言葉に従って あなたはとこしえの祭司 メルキゼデク(わたしの正しい王)。」と語られていることから取っているのでしょう。

さて、本日の聖書の箇所は何をわたしたちに示しているのでしょうか。
世の中が争いに満ちていても、主に従う人々には平和が与えられ、地上にいる祭司(主)
から救いの祝福を受けていくということ、そのようなことを示していると思います。その
平和というのは、特定の民族、ユダヤ人とか、特定の宗教、キリスト教だけに留まら
ない。神が造られた被造物すべてについてのことでありましょう。そのことが、イスラエ
ルの民族が生まれる前から示されていたことであると思われます。

キリスト教の団体は多くの争いを生んできました。異端の排除、魔女狩り、十字軍、カト
リックとプロテスタントの争い、利害関係の絡んだ戦い、キリスト教国同士の戦いなど、
あまり自慢できるものはありません。しかし、主に従う道には戦争はない、主に逆らう道、
主をないがしろにする道に平和がなく、争いが起こることを示しているのです。

主に従う道には、必ず、平和と祝福がある。イエスキリストに従う道には必ず、平和と祝
福がある。そう信じ、歩んでいるのがキリスト者です。最後にヘブライ人への手紙11章
14節に書かれているみ言葉を読みます。「全ての人の平和と聖なる生活を追い求めなさい」
これがわたしたちキリスト者の目標でもありましょう。平和と聖なる生活、聖なるとは、
イエスキリストに関わる生活、従う生活、愛し合う生活でもあります。「全ての人の平和と
聖なる生活を追い求めなさい」をいう聖書の言葉に聞き従ってまいりましょう。