創世記12章1節~9節
コリント信徒への手紙第Ⅱ6章1節~13節

平和な共同体の心得 召命に従う

人間には得て不得てがありまして、どうにもならない悲しさや悔しさを人なら誰でもお持ちでしょう。苦手なことは特に諦めて、比較的得意だったり、やりやすいことをしていくのが、人の処世術だとおもっています。

しかし、信仰が与えられまして、欠点もまた悪くないなあ、と思えるようになってきました。不能や非力、欠点に神が働くと、素晴らしい恵みに変えられることがあるということを知っているからです。欠点が恵みに変わる、これ、知りたいと思いますよね。今日の聖書の箇所はその秘密を示してくれています。さあ、見ていきましょう。

本日はアブラムのお話になります。
このアブラハムはノア子のセムの子孫テラの子どもです。聖書には系図がよく書かれています。血筋というものがとても重要な扱いをされてます。血が繋がっていることをとても重要視しますよね。皇室というのもそうでしょう。
あとは日本人とか、中国人,朝鮮人、白人、黒人、黄色人種とかも血筋にているようですね。
この場合、往々にして差別の原因になったりもしますね。
本日の聖書の箇所の場合は、アダムとイブから生まれた、子孫、血筋に意味あがることをしめします。そして、この系図は、有名なアベルとカインではなく、セトの子孫、ノアの子セムの子孫、テラの息子と名も知れぬ人たちが多く並びます。血筋がそんなに重要な偉大な人物の産出に重要なのか,という,問いかけのような系図なのですが、その話は別の機会に回すとしまして、今日の聖書の箇所この場合は一族の血筋というのが重要にしていたイスラエル、ヘブライ人やユダヤ人やアラブ諸国の諸民族の風習があったと考えて進めましょう。一族の血筋を絶やさないと言うのも難しいようで、日本でも徳川家などは15代将軍を引き継いできましたが、権力争いや陰謀などがあって14代将軍を巡っては、世継ぎのいための暗殺、毒殺などもあったようです。
一族の血筋を絶やさないということは人の心の底にある欲求のようなもののようにも思います。ユダヤ人の世界も多分にもれず、血筋、一族の後継者を作っていくことは、主に対して貢献していく事であると思っていたようです。現代日本でも少子高齢化を憂うように、当時でもユダヤ民族の維持発展には、優秀な氏族を残したい、信仰の厚い人たちを残したいと思っていたことでしょう。

さて、このアブラムはのちにアブラハムとなり、「信仰の父」と呼ばれるようになった人です。アブラハムリンカーンのアブラハムもこのアブラハムです。さて、このアブラハムの信仰はどういう信仰かといいますと、「神様の言葉にただただ従った」ということだと思います、

さて、このアブラハムは、ユーフラテス川の下流にあるウルというところに生まれ、アブラハムはサライという女性と結婚していましたが、このサライは不妊の女でした。アブラムの父親テラは、アブラムとサライ、孫のロトを連れて、ウルを離れ、カナンの方を目指していました。ハランまできて留まっていました。ここでのお話です。おのときは父親のテラはなくなり、アブラムも75歳となっていました。

さて、そのとき、主はアブラハムに告げます。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし(国民の祖父としよう、月本訳)、あなたを祝福し、あなたの名を高める(その名を大きくしよう、月本訳)。祝福の源となるように(あなたは祝福の〔基〕となりなさい)。
あなたを祝福する人を祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。(大地のあらゆる種族はあなた〔の名〕によって祝福し合うであろう、月本訳)」

さて、アブラムはこの言葉を聞いて、どう思ったでしょうか?
もう75歳にもなっているのにこの地を出て行かなければならないとはなんということか、そして、自分達夫婦はもう歳を取って老人になっているし、サライは不妊の女だ。大いなる国民の祖父というが、どういうことか?、自分達には子どもが出来ないから、子孫は直接は残せない。親戚関係の子孫を増やすというのか、と迷ったのではないかと思います。わたしによって祝福に入るというが、私たちは、子どもを埋めない夫婦で、祝福どころか、子どもが産めなく呪われるとでも思われるのではないか、そういうことは絶対あるまい。などと思ったかもしれません。
しかし、主の言われたとおりに、ハランを出発します。
妻のサライ、甥のロト、そこで、得た人々と共に出発しました。そして、500キロくらい離れたカナンの地に入りました。シケムの聖所、モレ(古くから聖所とされていた、月本注)の樫の木の所に至りました。シケムというのは今のパレスチナにありますね。そこにはカナン人が住んでいたということです。
主はシケムでアブラムに現われて言います。
「あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは彼に現われた主ヤハウェのため、そこに祭壇を築いた。そこから彼はべテルの東の山に移り、天幕を張った。西にべテル(古くから聖所があった)、東にアイ(廃墟の意、イスラエルの民に滅ぼされたと伝えられている、ヨシ八1以下)があった。彼は主ヤハゥエのため、そこに祭壇を築き、ヤハゥエの名を呼びました。主の命令に応えるという更なる意志の現れでしょう。アブラムはまた移動し、ネゲブ(南パレスチナの荒野)に移って行きました。

こうしてみますと、アブラムの信仰というのは、主の言いつけを守ること、従うことだと思います。それは、もちろん、この地での祝福をするという前置きがあってのことです。
アブラムは主のこの啓示を信じられなかったのだと思います、しかし、彼自身、叶うものなら、子沢山の祝福は得たいという気持ちも、あったのでしょう。

森有馬という方がいらっしゃったようですね。
日本の哲学者、フランス文学者です。 随分わき道に逸れたようなことになってしまいましたが、森有正の「アブラハムの信仰」という話の中に、その後、私が忘れたことのないこういう言葉があり、実は、それを紹介したかったのです。

「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅をもっております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神様にお眼にかかっている。そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない。人間がだれ憚らず喋ることの出来る、観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことは出来ない。人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことは出来ない。」

アブラムにはどういう悩みがあったのでしょうか?
不妊の妻が悩みのたねだったのは確かでしょう。
聖書からは十分はかりしることはできません。しかし、自分のことを考えても、主との出会いは、自分ではどうすることもできない、悩みにぶつかった時に、生じたように思います。そのときには神の召命が救いになります。神からの指示にただ従うようになると思います。アブラムも妻も甥ももしかしたら、非常に苦しい状態にあったのかもしれません。

主ヤハウェは、人々が最も悩み苦しむ時に現われてくださり、道を示して、救ってくださるという例でありましょう。

わたし達には苦しみや悩みが付きまとっています。それから逃れたいと日々苦闘するものでもあります。しかし、そこに、主がいてくださる、救いが必ずある、と信じること、そういう経験をされていくこと、は重要なことです。アブラムはあるいはサライも血筋とか人種による差別がなかなかなくならず、困ったと思うこともあるでしょう。しかし、主の言う言葉を聞き、行っていく時、自分の最も欠乏しているところ、自分の一番の欠点に、そういうところにこそ、大いなる祝福が与えられるということを神はアブラムを通して示してくださっているのだと思います。

わたし達への主の召命とはなんでしょうか。約束される祝福となはんでしょうか。
祝福とはイエスの十字架によって与えられる、すべての人の罪の赦しと同時に、永遠の命、御国であり、わたし達への召命とは、敵を愛せよ、主と隣人を愛せよ、愛し合いなさい、とか、愛を求めよとかですね。さあ、わたしたちは信じることが出来るでしょうか、イエスの十字架によってなされた全ての人の罪に赦しと御国を。そして、召命に従うことができるでしょうか、敵をも愛せというイエスの召命に・・・
不任の妻サライを連れにして、多くの子孫を与えると言われたアブラムのようにそんなの出来るわけがないじゃないと、思ってはいませんか・・・

それでもアブラムは主の啓示に従いました。
今、私たちには、愛することにいかなる自分の欠点があろうとも、聖書を通して、礼拝を通して、主の我々への指示を聴き理解し、歩む者となりたいと思います。とても素晴らしいご褒美、自分の欠点に神の業が働き、祝福されるという、神の国、平和な共同体が与えられることを信じて。イエスの十字架は我々すべてに救いを与え、さらに、イエスは十字架上の死から復活したことを信じていく、ここから全てが始まる、それぞれ個々の道が示されていくことだと思います。そして、欠けに思われていることも、不思議に、主のお力業で、恵みに変えられていくことを私たちは経験できるのです。そのことを聖書にも体験者パウロが次のように語っていますので、これを最後にこれをお読みします。

最後にコリント信徒への手紙第二 6章8節~10節をお読みします。
<わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(6:8~10)

一見マイナスにしか見えない欠点、汚点、無能さも神にとっては、有用なことです。
それゆえに平和を実現するためにも、有用です。主の召命に従って歩んで行きたいとおもいます。
お祈りいたします。