創世記12章10節~20節 マタイ2章13節~15節
平和な共同体の心得 全人類の創造主を信じる

聖書を読んでいてときどき不思議に思うことは、ユダヤ教ではない他宗教の方々との関わりで、どうも、ユダヤ教徒やキリスト教徒が他宗教から守られていたり、大事にされているとしか解釈することが出来ない場面に出会うことです。

今日の聖書の箇所もそうです。

アブラムは異郷の地エジプトへ行きました。飢饉で食べ物などがなくなったので豊かなエジプトの地を訪ねたのです。妻があまりにも美しいので、アブラムは、エジプトでは、自分の妻が奪われ、自分は殺されると思い、妹と偽ってエジプトへ入ります。案の定エジプト人はサライを見て、大変美しいと思いました。ファラオの家臣たちもサライを見てファらいに彼女のことを褒めたので、宮廷に召しいれられました。アブラムもそのお蔭で、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ロバ、らくだなどを与えられました。ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせました。ファラオはアブラムを呼び寄せて言いました。「あなたはわたしに何という事をしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそわたしの妻として召しいれたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい」
 ファラオは家来たちに命じて、ファラオを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させました。
 エジプト人やファラオにとっては、なんとも迷惑な話だったのですね。うそは付かれたし、多くのもの、家畜や奴隷など財産となるものは与えてしまったし、そして、サライまでも戻してしまいました。結局、飢饉で物が足りない状態から、エジプトの異教の国から不条理な多くの支援を受けたということです。

本日の聖書の箇所以外にもイスラエルやユダヤ民族がそれ以外の民族から助けられることがたくさんでてきます。
アブラムのひ孫のヨセフはエジプトのナンバー2になります。もちろん、出エジプトにありますようにイスラエルの民を重税、奴隷として苦しめたことや、列王記、歴代記などにもありますように、イスラエルの敵国となったときもあります。しかし、出エジプトにもありますが、モーセはエジプトの姫によって助けられ、育てられるということも、エジプト人がイスラエル民を救うというふうに解釈もされます。
ルツ記のルツはモアブ人でイスラエルとは異教の人ですが、実に彼女がダビデのおばあさんです。さらにヨナは異国アッシリアのニネベへ宣教し、悔い改めがニネベ全体でなされ、ニネベは主から守られます。
バビロン捕囚時はペルシャ王クロスによってバビロニアは滅ぼされ、ユダヤ人をイスラエル、エルサレム辺りに帰還させています。
新約にあたっては、エジプトへ行き、赤子のイエスがアウグストゥスの子どもの皆殺しから守られています。異邦への福音伝播はパウロ書簡にしめされています。

ですから、創世記は、イスラエルヘブライ民族やユダヤ民族の起源や歴史を書き記していますが、それと同時に、イスラエル以外の国々との出来事を記しつつ、主がヘブライ民族ユダヤ民族だけを創ったのではなく、全世界を創ったということを言わんとしていると思います。また、イスラエル、ヘブライ民族やユダヤ人内での罪を描くことによって、ユダヤ人、イスラエルという国は、その他の宗教のある国々と何ら変わらない、むしろ、神に対して不誠実な民であるということをしめしているものとも解釈できます。

とかく、私たちは、聖書はクリスチャンの教典、聖典とかいっていますが、内容は実は旧約の時代から、すべての民族にあてはまる教典であり、聖典でありと思わなくもないのです。聖書がベストセラーというのも頷けます。それだけ一般庶民にも訴えることがあるのでしょう。また、キリスト教文化や文学、芸術がどの地域でも世界中うけいれることができるのも、全世界の人々に共通する何か真理を聖書はかたり、その信仰活動は多くの人々に開かれ、受け入れられたのでしょう。

わたしたちは選民意識を熟考する必要があります、主が働きたもう、キリスト者以外の方々とも共に歩む御旨を理解し、聞き、そのような広く多種多様な方々との感謝の礼拝、交わりを続けていくようにしたいと思います。神がイスラエルを特に選ばれたのは、あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたを愛し、あなたを選ばれたのは、あなたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。(申命記7章6-8節)

イスラエルという民は世界中で最も貧者な弱い民なのです。そこに神の業が働くのです。貧しさの上にかつて世界最強の権力をソロモンに与えました。神が選ぶ民は誰よりも貧弱なものです。しかし、それだからこそ、そこに、神の業を見出せることも確かです。

自分の弱さを知るとき、そして、それをすべて主に打ち明け、憐れみを請う時、主は奇跡を、恵みを、不思議な大逆転劇を、欠点を恵みに、敵を、存在するものすべてを、協力者にもしてくださるということを、本日の聖書の箇所は示してくれているのではないでしょうか。

わたしたちは、主、イエスキリストを信じています。何故ですか?自分の罪に苦しんでいるからではないですか。罪人である事を重々自覚し、死に至る恐怖を感じているからではなですか。自分には何も出来ない、主に委ねるしかない、と自覚しているからではありませんか?

こういうときこそ、主の業が働くことを、しかも、クリスチャンや教会だけに主の業が働くのではないのです。あなたに働きます、しかし、あなただけに働くのではありません。あなたの周りにあるすべての人、物にも主の業が働くということを本日の聖書から読み取ることが出来ます。罪の悔い改め、弱さを主にゆだねたときになのでしょうが。

私自身はイエスキリストの信仰者だと意識して他とは違うぞ、もっとも大事な真理を知っているぞ、と思っていますが、暮らしを支えてくれる方々を考えてみますと、キリスト教以外の方々が非常に多い。さて、これはどういうことなのでありましょうか。
他宗教の方々に主イエスの力が及んでいるとしか思えません。

キリストを知らない前からわたしたちの選びがあります。「神はわたしたちをキリストにおいて天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なるもの、汚れのないものにしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと御心のままに前もってお定めになったのです。」(エペソ1:3-4)

 神から選ばれし者は、このような他宗教からの恵みにも預かる人のことをいうのではないでしょうか。神が選んだ人々は最も貧弱な人々です。ですから、自分だけでは絶対生きていけない。誰かに依存しなければ生きていけない弱い存在です。その依存をする人はユダヤ教徒ではない。同じ宗教の人たちではない。むしろ全然違う宗教や価値観の人から助けをうけるということではないでしょうか?

ベッテルハイム 1863年沖縄へ 住民協力的。

 わたしは自分が神から選ばれた理由を考えたいと思っています。実に貧弱な人だからです。その貧弱者は私以外、そして、キリスト教以外の人からも不思議な方法で支えられることが補われていると思います。ですから、わたくしは、異教の方々がいなくなればいいとはとてもとてもいえません。むしろ、異教の方々にも感謝しつつ、歩んで生きたいと思っています。

主イエスはキリスト者だけではなく、ユダヤ人もイスラムも仏教ともすべての宗教に所属する方々の創造主であるとうことを覚え、わたしもその方々からも助けられながら暮しており、そこに気づき感謝し、また、そのようになさっている主に感謝していきたいと思います。