最近、豚インフルエンザの拡大、予防などがWHOからマスメディアで奉じられていますね。日本では今誰も発症していませんから、いいものの、発症しましたなら、感染拡大の危険が全国に広がり、対策が必要になってくると思います。 只越荘でも金曜日、緊急会議を開きまして、日本人感染者がでたら、どう対応するかについて、うがい、手洗い徹底ということに決めています。 人間のすめる環境が非常に悪くなってきています。温暖化、大気汚染、水質汚染、生きる基盤が崩壊しているように思えてなりません。地震や津波、大雨、台風、ハリケーンなど、 この地上は人間の脅威にさらされることもあります。 そして、もう一つ考えなければいけないのは、大気汚染や水質汚染が人間が非常に大量生産をせまられ、汚い物を作り出してそのまま捨ててしまったり、ゴミを多く出してしまったりしている結果でもあるということです。スギ花粉になったり、アトピーになったりすることも、人間の活動の結果が、環境あるいは人間自身を破壊したり、病気にしたりする原因を作っているということに関わっているかもしれないのです。放射能の危険の伴う原子力の問題などもあります。 環境や人間を破壊する最も簡単なものは戦争やテロなどの暴力破壊活動ですね。 さて、聖書では、「天地創造」の1章では、「極めて良かった」ということが言われているのです。神様からみて、この天と地は極めて良かった、というのです。 この世界の完成された「極めて良かった」作品に人間もおかれていました。 この「天地創造」を聖書で見ていきますと、途中、ノアの時代に次のようなことがありました。創世記6章ですが、 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計らっていることをご覧になって、地上に人を作ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。 「わたしは人を創造したが、これを地上から拭い去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも、空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。 神の恩寵 「極めて良かった」と神が語る天地創造。これができたのは「闇の中」にです。 闇に光を加えられたのです。初めは何もないか、闇であったものに、光から始めて天地が創造されたと聖書は語ります。 神の創造は無から有とされることのようです。ノアの場合は本来、滅ぼそうとした天地を滅ぼさなかった、創造を捨てなかった、といいますか、ここに神の創造の本質を見る思いがするのです。神の恩寵は、人が素晴らしいから、極めて良い、天地を与えたのでもなく、 むしろ、悪い人だから、憐れんで、極めてよい天地を与えてくださった、神側からの一方的な恵みとして与えてくださった、ということになるのだと思います。 ヨハネの黙示録 終末の様子と現代 さて、現代、冒頭に上げたようなおとを思いますと、聖書の語る世の終わり、終末のように、おもわれます。聖書には終末に天地創造の天地に異変が起こるとされています。マタイによる福音書には24章29節には、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」とあります。ヨハネの黙示録には8章8節から、天と地が生き物や人が滅ぼされていくようすが書かれています。もはや、天地はこれで終わりか、とさえ、おもわれる、絶対絶命の様相です。 恩寵を信じる 「極めて良かった」とされた天地創造。今日も青い空、暖かい太陽、落ち着いた大地、草木の恵み、豊かな川や海の水、動物や人々の暮らしを改めて神の創造の業と、感謝できるときでもあります。しかし、一方では、わたしたちは、新型インフルエンザにもありますように、滅びの道程をも予想するものでもあるのです。しかし、聖書からみると、いつでも創造することをやめていない。常に新しい物とことを創造されているのです。無から有、闇から光、支配から解放を、マイナスからプラス、絶望から希望、滅びから救い、悲しみから喜びを、憎しみから愛、死から命、不正から正義を、悪から善を、戦争から平和を、汚れや汚れからから清さを、(ガラテア書5章19節-24節をみますと)肉の業から霊の業を、つまり、肉の業である姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴の類のものを、 霊的な業である、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を創造されるという、創造だともいえると思います。 これを神様からの恩寵として信じる、ここに、わたしたちの希望が、計り知れない希望の秘密があるように思われます。 イエスの十字架の救いと復活の意義の大きさ イエスの十字架と復活も創造から説明できると思います。イエス・キリストの十字架という最大の冤罪、悲惨、不条理、支離滅裂、恐怖、あってはならないこと、死から復活、逆転劇、これが天地創造でありましょう。そして、復活したイエスは、もちろん、わたしが言うのは僭越のように思いますが、極めて良いものです。 希望 わたしたちは天地創造を知る時、聖書を通して知る時、神はいつも創造し続けてくださっていることを知ることができるのです。しかも「極めて良かった」と神が宣言するようにです。霊的な目をもてばそれを理解することができます。人間の目、霊的ではない目、肉の目で見たならば、それは、滅びしか見えません。冒頭で話しましたように、破壊の脅威にされさているようなのです。人間性も含め、本当に絶望しかないようにおもうのです。しかし、神は天地を造られた、神はそれをみて、「極めて良かった」と宣言されることを知る時、罪深い人間のままのわたしであり、周囲にも期待できないような状態であっても、しかし、神には、イエスには、聖霊には、自分の人智を超える、希望を、希望の業を見出すことができるのです。