聖書 エズラ記9章1~15節(旧約p735)
   マルコによる福音書24章15~28節(新約p47)
説教 平和の共同体の心得「非戦、非暴力、非破壊つまり生の創造」

安冨歩という人は私は現代の思想の革命児だと思いっています。経済から人間関係、組織などすべてにおいて革命を起こす思想家だと思います。その中心思想は、非戦、非暴力、非破壊つまり生の創造によって生きる、ということだと私は思っています。そこからすべての事象を解釈し、意味づけすることができます。例えば、私の行なっている言語聴覚療法いわゆる言語障碍者へのリハビリですが、これは言語障碍者がよりよく生きるために行うものです。ところが多くのSTは直すことができることにSTの価値を置いています。直してなんぼ(1970年代アメリカから日本へ言語聴覚療法を紹介した日本の草分け的な一人柴田の講演より)ということです。しかし、実際に直すことができる言語障碍って皆無です。そうなったとき、直せるSTが価値ありとなった場合、STの価値は全く0ということになりましょう(ここでSTは直せるに拘るあまり、偽善的なる場合があり得る。自然治癒に遭遇した場合、たまたま、直したように見えるのを、自分の臨床の力で直したというように)。しかし、しかしです、安冨の思想を借りれば、価値は直すことではなく、「生きる」ことに集中していきます。つまり、生きているということが重要で価値ありということになります。言語障碍の方々が生きていくお手伝いをしていくことの方が重要だということです。したがって、STモデルは直すSTモデルから、生きることを手伝うSTモデルへと変わってしまうのです。

安冨はさらに国家は戦争するためにできた組織だというように洞察します。国家の存続理由は、戦争の勝利。そうすると国家に必要な人物とは戦争に勝つ人間ということになります。優秀な人とは国家の戦争に勝てるような人ということになます。国家内のシステム、組織は戦争に勝つためにあるということになるのです。学校も会社も何もかにも戦争に勝つためにある、そう思ったとき、すべて、合点がいきました。その通りだ、アーメンと。この世は戦争に勝つため、暴力肯定の社会だったということが分かったのです。そして、すべてが、そのシステムに取り込まれている。ああ、なんということだろう。

神の言葉(思想)はおそらく、この戦争思想、暴力思想、破壊思想とは真逆な非戦、非暴力、非破壊つまり生の創造なのだと思います。そういう視点から聖書を読むとよくわかるような気がします。本日のエズラ記9章、マタイ24章15節~28節もよく分かります。エズラ記の方はエルサレムに戻った祭司エズラはエルサレムの人々が異教の神々に仕えたことを非難し、異教の人々との結婚を禁止しますが、これは、戦争思想、暴力思想、破壊思想への非難、否定的見解を示していると考えられます。エズラは異教のペルシャ王から守られ感謝もしているわけですから、異教だからという理由だけでは結婚を禁止などできないように思います。ここはヤハウエイの神が非戦、非暴力、非破壊つまり生の創造思想を人が受け入れていくことの重要性(神から示されたこれらの思想が人を生かす)を私たちにメッセージとして伝えているのだと思います。マタイの方は、破壊者が聖なる場所に立つのをみたら、最大の苦難がやってくることに気づけ、と語られているところです。戦争思想、暴力思想、破壊思想が蔓延し、神の思想を人が受け入れなくなったとんでもない苦難が襲うことが描かれています。当たり前といえば当たり前です。だから、非戦思想、非暴力思想、非破壊思想つまり生の創造思想が必要だということを語ってくださっていますし、たとえ、人間側でそれができなくなっても神が苦難から救ってくださる(期間を短くしてくれる)ことが書かれています。

非戦思想により、言語障碍者にも価値が生まれ、非暴力思想により、彼らに加えられる差別や偏見をなくすようにし、非破壊つまり生の創造思想により、例えばできることを用いて歌を歌うなど、楽しさを味わうなどしていくこと、それが、神の求める生き方なのであり、言語聴覚療法(リハビリ)ではないかなと思うのです。

みなさまの祝福を祈ります!