エズラ記3章1〜13節
マタイによる福音書18章18〜20節
題:平和の共同体の心得「どんな状況でも礼拝はできる」

本日の聖書の箇所は礼拝の仕方について考えさせられるところです。エズラ記3章にはバビロニア捕囚から帰ってきたイスラエルの民が破壊された神殿のあとにとりあえず祭壇を設け仮庵祭や新月祭などの祭儀や焼き尽くす捧げ物を捧げたことが書かれています。震災後に破壊された教会の跡地で礼拝を捧げる感じでしょうか。そうしてこれから立派な神殿を再び民は築きあげていくようです。本日のマタイによる福音書には、二人あるいは三人集まるところにはイエスがおり、そこ祈りを叶えてくれるという記述があります。共同体形成を意識して書かれたマタイの独特の表現ですが、共同体は2名の共同体でも十分だ、大きい共同体だからという条件でそこに神がいるというわけではない、問題は心を合わせて祈ることであるということを伝えてくれているように思います(主の祈りは一人隠れて祈れなどという他の聖書の箇所からみると祈りは一人でも叶います。)。こういうことから考えると、神殿や教会の造りが立派だろうが立派でなかろうが、教会に集まる人が多かろうが少なかろうが、どんな状況においてもイエスは共にいてくださり、祈りを叶えてくれる方だということを本日の聖書からメッセージとして受け取るものです。まさしく気仙沼集会にもイエスが共にいてくださり、ここからの祈りをも叶えてくださるということでしょう。手前味噌ですみませんでしたが、有り難いことです。

皆さまの祝福を祈ります。