聖書 エズラ記2章1~70節(旧約p723)
マタイによる福音書26章6~13節(新約p52)
説教 平和の共同体の心得「主に随意に捧げる」
自治会の公会堂の建設が進み、いよいよ2月24日に落成式をすることになりました。ここまで進んできたことには、自治会住民の随意的な意志があったように私は思っています。自治会長は補助金ありとのことにも背を押され、老朽化した公会堂の新築をしたいと思い、自治会員も自ら進んで、ある方は設計図を作ったり、ある方は重機で造成したり、建築技術や、建設造成技術等を提供してきました。落成式となれば、装飾花をそなえてくれるとか、お吸い物を出したいとかお椀を提供するとか、自から発案、実行してくれるようです。無理無理やるのではなくて、「これをやりたい!」と思う随意的意志でもってなされていくのです。こういうことで共同体なり社会が形成、継続していくものではないかと改めて思ったりしています。もしかして、国家も、人々の随意的意志で成り立っているのではないか、と思ったりもしました。やる気とか意欲とか主体的、自発的ということばで表現される、そういう随意的意志ですね、これがポイントかと思った次第です。
本日の書の個所、エズラ記2章ですが、ここには、バビロニア捕囚から解放されたイスラエルの民約4万人の会衆がエルサレムの破壊された神殿に到着したことが書かれています。そして、親族の頭の幾人かは神殿の再建のために随意的に捧げものをしたと記されています。金6万Ⅰ千ドラメク(約262㎏換算して約13億円)、銀
5000マネ(約2350㎏換算して約70億円)と祭司の短衣100着を自発的に差し出したというのです。これは驚きです。
新約聖書のマタイによる福音書にはある女性がイエスに高価な香油を注ぎかけたことが記されています。300万円以上の香油だったようです。これを見ていた弟子たちは憤慨して言います。「なんて無駄なことをするんだ。高く売って貧しい人たちに施すことができたのに!」と。ところがイエスはこれに気づいて言われました。「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々は常にあなた方と一緒にいるが、私は常に一緒にいるわけではない。この人は私の体に油を注いで、私を葬る準備をしてくれた。この福音が宣べ伝えられる所では、この人がしたことも記念として語り伝えられるだろう」。ユダヤ教では遺体に香油を塗り布で包んで墓に納めたそうです。イエスは、この女性が自分に高価な香油を注ぐことは自分の埋葬の準備をしてくれることと理解し、それに対し普遍的な意味を見出し、感謝さえしているようです。この女性はおそらく自分の随意的意志で、この時、このタイミングで自分がイエスに対してしたいと思ったことをしたのだと思います。
本日の聖書から、神は私たちに、「神に対してしたいと思うことを自由に行いなさい」とでも語ってくださっているようです。さらに「それは、周囲からはおかしいと言われることもあるかもしれない。こうすべきだ、ああすべきだとか、あなたの自由を不自由にし、抑圧することがあるかもしれない。しかし、あなたが、自分で感じ、自分で考え、今、これがしたいと思うこと、それこそが大事な事。あなたが神にしたいことを行なっていきなさい。これは、今後、歴史が続く中で、変わらぬ神からの良き知らせです」とでも語っているようですね。
随意的意志は、この世では、往々にして拒否されやすいのではないでしょうか?「出る釘は打たれる」という諺もありますね。主にあってはそうではありません。大丈夫。神に対して良いと思ったことはどんどんやりましょう!ということでしょう。神に対して良いこと
とは命を大切にするとか、命を愛おしく思うこととかなのかなと思います。
皆様の祝福を祈ります。