出エジプト記6章26節~7章7節、第二コリント12章5~10節

平和の共同体の心得 「弱いときにこそ強い」

アロンとモーセはイスラエルの民をエジプトからカンノの地に導くリーダーとされていきます。モーセはここでも、神の命令「エジプトの王ファラオに語りなさい」に対し、「わたしは唇に割礼のないものだ」と話します。モーセには言語障がいがあったようです。しかし、主はモーセに、イスラエルの民をエジプトからカナンに導くのは、主ご自身だと語ります。ファラオを頑なにさせるのも、エジプトに災いを与えるのも、主ご自身であるということをここで語り、モーセを説得します。

さて、ここで、神がなぜ口下手のモーセを選んだのかを考えてみましょう。神は雄弁な適任者を選べばよかったと思いますが、そうはなさらなかった。イエスの弟子のパウロも身体障がいが何かあったらしく、思う存分働く事ができなかったようです。しかし、神の言葉を述べ伝える伝道者としてパウロほど活躍した人はありません。弱さのある人が偉大な事をなす事はたくさんあります。例えば、発達障がいのある有名人には、レナオルドダヴィンチ、アインシュタイン、エジソン、ケネディー大統領、ゴッホ、ビルゲイツ、ステーブ・ジョブス、スピバーグ監督、長嶋秀、黒柳徹子、山下清、坂本竜馬などがあげられています。画家の星野富弘さんも重度の身体障がい者です。その他、弱さのある人が人類に貢献したことを上げれば枚挙に暇がありません。モーセ、アロンが主に従って、エジプト王ファラオに奴隷の側から提言したのは、モーセ80歳、アロン83歳という年齢でした。これもまた、弱さが主の業を展開するということを示しているのではないでしょうか。パウロは自分の弱さを取り除いてくださるように3度主に願ったということです。しかし、主からの返答は「わたしの恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」ということでした。パウロは、「だから、キリストの力が自分の内に宿るように、むしろ、大いに自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしの弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして、行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」と語っています。

信仰とは体験によるものです。弱さに宿る神の力を私もうすうす感じるものです。世の現実は強者が弱者を食い物にする、働かざる者食うべからずのような、弱肉強食、成果主義、能力主義の価値観が多く支配しているようです。

本日の聖書の箇所は、弱肉強食、成果主義、能力主義、そういう考え方に真っ向から否、を突きつけることでしょう。パウロの言う弱さに働く、神の力こそ価値がある、弱さに働く神の力がこの世に働いている、そこに気づけといっているように思います。弱さに働く神の力とは、どんな人とも共に生きる力なのかなと思っています。弱さに働く神の力を現実の暮らしの中で体験できるものでありたい者です。