出エジプト記4章18節~4章31節
ヨハネによる福音書14章6節
平和の共同体の心得「主は人を殺すか?」

昨日、生命保険の外交員が来まして、個人年金を勧めてきました、豪ドル建てだと年利2.3%とかになるから貯金するより、お得だという訳です。そういう話の前にその人と雑談している最中に、イスラエルとパレスチナの紛争の問題を上げていまして、イスラエルがパレスチナの人々を一般市民が犠牲になっていることについて、いたたまれないと話していました。

最近集団的自衛権を認めた閣議決定がなされました。安倍首相は「抑止力」によって平和を築こうとしています。やったらやられるよ、という構図があるんです。ですから、安倍首相は「脅威」を与え、平和を築こうとしているように思えてなりません。罰が与えられるから、しかたなく、攻撃を抑える。これでは、恐怖心は消えないでしょう。平和とは、相手に武力がなかろうが、あろうが、こちらは武力なしで、実現される状態でしょう。。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ二・四)。これは国連本部に掲げてある聖句です。イザヤは紀元前8世紀今から2700年近く前の方です。その人がすでに武力なしの平和を預言しているとは驚くことです。憲法9条はこのイザヤ書のことをいっているのでして、とても理想的なことを語っているのです。私はこれを守っていきたいと思いますが、キリスト者においても賛否は分かれていますね。

今回の聖書の箇所には不可解な箇所(24節)があります。
24節『(エジプトに向かう)途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足につけ、「わたしにとってあなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女はその時、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。』

上のような記述が出エジプト記にあります。エジプトからイスラエルの民を導き出す、リーダーとなるモーセ。これは神様が選んだはずなのに、なぜ、神は、殺そうとしたのか?まったく聖書には書かれていません。ここに解釈が必要になってきます。解釈がいくつかあるのですが、これは過ぎ越しをイメージさせるという解釈を私は受け入れます。

私なりの解釈は以下のようです。

旧約聖書では人の罪が徹底的に描かれていると考えます。モーセは、200万人以上ものイスラエルの民を導き出す英雄だとしても、神からみれば滅ぼされて当然だということ。旧約の出エジプトの編集者はもしかしてそういう視点で伝承を集め整理していたのかもしれません。主から命を奪われるような人間、モーセ。しかし、主は命を奪わない、生かしてくれるのです。旧約聖書では、神様から見れば滅ばされて当然の人間が神様の憐れみによって生かされていることを伝たかったのだと思います。

それにしても旧約聖書には、人が多く死んでいきます。イスラエルの民は十戒違反、特に考えさせられるのが、安息日違反、バアルの神に捧げ物を捧げたからとかそれで人命が絶たれてしまいます。カナンの地に入る時、先住民を殺戮するイスラエルの民に神がその命令を出したことが書かれているのです。一方十戒では汝殺すなかれという律法があります。聖書のこういう矛盾を解く方法として、聖書を批判的に理解していこうという神学があります。2011年以降では上村静という方が、『旧約聖書と新約聖書』という本で、人を殺せとか、民を凄絶せよ、という記述は、聖書の著者(これは1000年以上に渡るかもしれない、何百人という著者や編集者がいたかもしれない)その都度、その都度の都合で書き加えられたり、訂正されたりきた書物だということだと紹介されています。もちろん、熟慮に熟慮を重ねた結果だとは思いますが。上村は、神学とは、人間の命に語るのでなければ無意味だということを説き、聖書には命を破壊する暴力装置として働いているような神の記述もあるとして、聖書を問題視し、そういうことから聖書を、神が書いた書物ではなく、人間が神につい手かいた一般的書物と同等の書物だと語ります。そういうことですと、神は人を殺せと聖書に書いてあることは、人間が人間を殺したにもかかわらず、それを神が殺した、というふうに書いた、ということになります。但し、これは当時は、著者や編集者は熟慮した結果だと思いますが。そういうことでしたら、神は十戒で汝殺すな、と言いつつ、人を滅ぼすことはなさらい、ということになります。私は、聖書には神の言葉も、人間の考えた神の言葉も両者が記されている書であると私は思っています。

主は人を殺すか? 否、生かします。たとえ、神自身の手で殺すことができるとしても人は殺しません。生かす神です。わたしたちはこういう神に関わってもらっているのでしょう。その神に私も倣っていきたいものです。「私は道であり、真理であり、命である」とイエスはヨハネによる福音書で語っています。命の神です。命、それ自身が神であり、生きていることが意味ありとされるということです。「何のために生きるのか」という生きる目的ということはなく、生きることが目的であり、ゴールなのだというです。αであり、Ωです。私たちは、生きるために、食べ、生きるために寝、生きるために勉強し、生きるために教会に来たりします。ツイポラの理解できないような行動は信仰活動ともとらえることができます。ツィポラの行動は生きるための祈りととらえることができます。生きているからこそ、生きていきたいからこそ、できる行動です。私たち生きていること、これからも生きていけることに感謝していきましょう。また、決して死んでもいい存在などないということを覚えていきましょう。

祈ります。