出エジプト記3章1節~21節 使徒言行録7章30~35節 説教 平和の共同体の心得「試みにあっても モーセの召命」 職場に、仕事の出来が悪い人がいます。みんなからいじめの対象になっています。大きな声でみんなの前で叱られます。ちゃんとやりなさい。何回言ったらわかるんですか。ある人は、こんなことをいいました。この間も風呂場に長袖着てきたので、注意したら、その場で脱いで「ババシャツきていで、みっともないったらありゃしない。更衣室で着替えで来いっていってやったよ。十字架のネックレスなんかしてたんで、これからしてくんすな!っていってやったでば」というのですね。「同じ給料をもらっているのむかつく」とか「その人、やめなければ、おれやめる」とか、まあ、かわいそうな限りです。結局施設では辞めさせないということになったのですが、周囲の雰囲気に、その胸中いかがなものかと、痛みを覚えるのです。 本日の聖書にはモーセの召命が書かれています。イスラエルの民(200万人以上らしい)をエジプトから脱出させるリーダーになるようにという召命を受けます。この召命によってイスラエルの民全員がエジプトの重労働、虐げられた扱いから解放されます。実に召命を受けたモーセ一人が200万人を超えるイスラエルの民全員の解放を成し遂げるのです。 聖書には一人の人間のもたらす大きさが随所に示されています。初めに創られた人は一人のアダム、その最もよい助け手一人の妻イブ、洪水の危機を回避するため方舟を作ったノアも一人です。そして、人類のすべての罪をあがなったイエスも一人。パウロも一人、福音記者も一人の名によっています。今日の使徒言行録の箇所はステパノという人が、語った一部がかかれ散るんですが、彼には素晴らしい不思議な業を行う信仰者でした。「解放された奴隷の会堂」に属する人々、ある思想集団の人々なんでしょうか? 豊かな富裕層のユダヤ教徒なのらしいですが(BC63年ポンペイウスが遠征したとき、ローマ帝国の奴隷となったユダヤ人が解放された人々で形成していたグループ)、そういう人々がイエスと議論してその人々が歯が立たなかったものだから、妬みが生じ、モーセと神を冒涜する言葉を聞いた、と民衆や長老や律法学者を扇動してステパノ殺害に至らしめるわけです。そのとき、大祭司を含め、群衆の前で、ステパノが語った一部ですね。終りのほうはすごい、聖霊に逆らっているとか、人殺し呼ばわりするんですね。群衆を。 聖書は単独者なる者の重要性を示しているように思われてなりません。イエス後の世にあっても、フランチェスコ、ジャンヌダルク、マザーテレサ、なども一人で事を行いました。日本では無教会の内村鑑三、その影響を受けた矢内原忠雄、南原繁、かれらは東大総長になりました。最近では一人で新約聖書を日本語訳にして出した田川建三など一人で偉大な仕事をなす人がいらっしゃいます。 モーセの召命は荒野の山の中で生じました。そして、そこが聖なる場所であると聖書は言います。これは聖なる場所とは神殿や教会など単なる築物があるところが聖なる場所ではないということです。聖なる場所とは、神との関わりがなされるところならどこでも、ということになります。 聖書は人の救いについては、一人ひとりを貴重で有用な可能性を秘めた存在としているように思います。もし、誰かの苦難が解放される道(方法)を、自分が気づいているなら、それは神の召命ではないでしょうか?私のそばに虐げられ、人々から排斥されている人がいます。神はその人の話を聞け、その人の友となれ、と私に示しているように思うのです。十字架のネックレスをしていました。聞くところによると、新興宗教ではないかということです。しかし、その人は、そうものに頼らければいけないほど、苦しみを受け、傷ついたり、悩んでいるのではないのでしょうか? エジプトのイスラエルの民と同じように。 私に課せられた課題かもしれません。これはモーセの召命と同様の召命と思っていいのかもしれません。もし、そうだとしたら、これは、重大な任務です。願わくはその任務が果たせますように。 皆さまお一人おひとりの祝福をお祈りまします。 命じる神の名は、「わたしはある」という名であるといいます。ここの神の名の解釈は難しくいまだ定説がないらしいです。モーセはエジプトからカナンの地(今のイスラエル周辺)にイスラエルの民を導くことになります。このカナンの地方にはいろいろな民族がいました。イスラエルの神を信じていない人々も多くいました。五穀豊穣の神を崇める人々もいました。しかし、今日の聖書の箇所はカナンの地を、「ひろびろとした素晴らしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」と語り、多民族地域での共生、同化してさえもいいような感じで表現されています。もちろん、エジプトを出るのは、あまりにもエジプトの暮らしが重労働を課せられ、苦しんでいたイスラエルの民を救い出すためです。その時、逃げていく地域が多民族国家で、彼らが習慣や文化をもった暮らしの場でした。 モーセの召命:モーセはミディアンの地で姑の祭司であるエトロの羊の群れを飼い、妻と子供達といっしょに平和な暮らしをしていたようです。そのようなとき、神の使いが突然モーセに現れます。モーセがシナイ山の荒野において、柴の燃える炎の中で現れました。 カナンの地:異邦人の地、多民族社会。へ導く。ともに暮らせ、生きろということ。 あってあるもの:神の名を「わたしはある」というように明確にしない? なぜか? 多民族、宗教が異なる人々とともに暮らせるためではないか? それぞれ与えられた役割がある。その役割を果たせるよう、神は自分自身を配慮し、我々に求めている。排他ではない。単独者である。共に生きるという究極の配慮であるかもしれない。 マザーテレサのことば この「解放された奴隷の会堂」に属する人々とは、紀元前61年にローマの将軍ポンペイウスが、多くのユダヤ人奴隷をローマに引いて行きましたが、やがて後に彼らを解放しました。ステファノの時代から数えても90年ほど前の出来事です。解放された元奴隷のユダヤ人たちとその子孫は、異国の地で自分たちだけの信仰共同体を作り、シナゴーグといわれる会堂を建てて、ユダヤ教徒としての信仰を維持しようとしていたのです。エルサレム市内にも彼らの会堂が点在していました。彼らは長く異邦の地にありましたから、ヘブル語の聖書よりもギリシャ語訳の聖書を読んでいました。それでも心は生粋のユダヤ人に負けまいという、熱心なユダヤ教信者も少なくありませんでした。同じヘレニズムの影響を受けたキリスト者ステファノは、彼らにとって、自分たちの信仰の正しさを証明する絶好のターゲットと映ったのではないでしょうか。