出エジプト記35章4~22節 使徒言行録4章32~37節 説教題 心を動かされ 346,441、474 2016.10.2.柴宿教会礼拝 最近、2つの癒しを経験しました。一つは、うつです。私ストレスが溜まるとうつになりやすいんです。結構プライドもありまして、それがまたストレスを生み出す原因にもなるんです。例えば、職場で、利かない職員がいましてね、よく、意見がぶつかるんです。ヒアリハットという、事故防止のための報告書を書いて判子をもらいに回ったとき、高卒の准看護師から、それおかしんじゃない、判子押さないガラから、と却下されたりするんです。それだけなら、うつにはならないんですが、悪いことが重なるんですね。睡眠不足になったり、利用者から嫌われたり、交通渋滞で遅刻して減給されたり、映画をみて睡眠不足になってしまい、便秘になったり、体調が悪くなってしまったり、で、いらいらして、いつも、「きよえさん、今日何やるの?」とか言ってくる、おしゃべりな利用者に、「うるさおからだまっていなさい」と言って、あっ、虐待してしまったと罪悪感に落ちってしまう。さらに牧師なのに、こんな生活でいいのか、部屋は散らかっているし、掃除もしていない、ああ、俺はもう終わりだ・・・と悲壮感に浸ってしまいます。思う・・・そういうことが重なるとうつになるんです。これは、また、うつ病ではないようです。うつ病はこういう状態に、うつ病は食欲がなくなったり、眠れなかったりという症状が2週間以上続いた状態とされるようで、医師が診断するんです。私はお腹はすくし、と、いつでも眠れる状態でしたのでうつ病ではないようでした。さて、このうつ、どうやって、癒されたかといいますと、先週の月曜から金曜まで睡眠時間8時間以上をキープしたわけです。そうしたら、金曜日にはやる気満々、元気回復したわけです。 もう一つは膀胱炎ですが、これは、抗生物質が効かなくなりまして、医者に水を飲んで直せと言われまして、一日に水を2リットルくらい飲んでいました。膀胱炎は特に体の疲労が私の場合、原因です。睡眠と水飲みで癒されました。昨日病院に行きましたら、大丈夫ですね、と言われた次第です。 病の癒しには、休養が必要だと思いました。寝ること、眠ることが重要だと思いました。天の国には、もしかして、眠っているときに、人間が入っているんじゃないか、なんて、思いました。すべてを神の支配に任せているのが、眠っている状態じゃないですか。マタイによる福音書にも、11章28節にも、疲れたもの、重荷を負うものは、誰でも、私のもとに来なさい、休ませてあげよう、とあるではありませんか。眠ることは休むことには最高によいの状態ではありませんか。イエスは我々によく眠ることを進めているように思います。イエスもよく食べ、よく眠っていたようでしたよね。嵐の時に船の艫の方で眠っていたのです。重大問題に出くわすほど、眠っている、休んでいるんです。それから、よく、食べているんでよ。4000人や5,000人の人々と食べ、罪びとや貧しい人と食べていましたよね。最後の晩餐でも食べていますし、復活してからも食べていましたよね。イエスはもしかして、神の国は、食べて寝るところだ、とでもいいたかったみたいです。人間は食べて眠ればそれでいいんだ、みたいに思えないこともないと思いました。人間、これだけやっていれば、絶対、平和ですよね。病気も癒されるでしょうし、元気もりもり、元気になったら、人と愛し合う、これだけでしていればいいです。というようにも、今回の癒しを経験し、思ったりしたわけです。 それは、ともあれ、神の国とは、十戒を与えた,神の支配する、平和で、病が癒され、希望がある、共同体、であるようだということは確かです。信仰者はこの神の国を知っており、信じており、教会にはそのような信仰者が集まり、組織共同体を形成しています。そして、この、癒しが行われ、悪霊が取り去られ、平和で食べ休めかつ希望をもって暮らせる神の国のあることをお伝えするためのに、共同体を形成しています。 出エジプトの示す神の国 聖書を読んでいますと、聖書が言う人の道、どこへ向かって進むべきか、生きるべきか、という問い、に対してどう答えているか、こういう、回答が至る所に示されています。こういうところに気づかされる訳です。月本明男という旧約聖書の研究者は、旧約聖書は、ユダヤ教の聖典というだけではなく、人類の「精神史」が示されていると思う、と語っております。聖書からすべての人への、生きる方向付けが、可能な署となり得るということです。伝道不振と言われますのは、ここを私たちがよく理解していないからなのではないでしょうか。聖書にどれだけの価値があるのか、信仰にどれだけの価値があるのか、教会にどれだけの価値があるのか、愛にどれだけの価値があるのか、それを、見出す作業をしていないから、伝道が思わしくないのかもしれません。神には、聖書には、信仰には、私たちが、どこに向かっていき、何のために生き、どう生きるべきかの回答が示されているのです。 出エジプトの場合は、エジプトの抑圧からの解放のために人は生きるべきであり、乳と密の流れる食べることに十分な肥沃な土地へ向かい、十戒を守って生きるという生き方が示されています。ここは、よく考えてみますと、軍事力に優れた文明の繁栄から離れ、十分食べて、礼拝し、十戒にあるように、人と平和に交わり、そして、休むとか、安らかに過ごせる、そういう生き方をするべきだ、という考え方になりますね。安らかな暮らしを目指せる。神には、聖書には、信仰には、「安らかな暮らし」がテーマとなっていることには間違いないように思います。教会も、私たちがやすらかな暮らしを送るためにあるんだ、ということになれば、万人にもっと伝えやすくなるように思います。礼拝はそのために、教会もそのために、神もそのために、いらっしゃると私は考えたいです。神を安らかなスラ氏を送るために利用するのは悪いようには思いますが、正直な私の気持ちです。すべての人が安らかな暮らしをおくることができるように私は祈るものです。 組織がうまく機能する条件が今日の聖書の中から垣間見ることができます。 それは自ら心動かされて加わるということでありす。 強制ではありません。組織がうまく機能していくためには自らお捧げしたいという気持ちが必要であるということを意味しています。ある組織がうまくいくには一人ひとりがその組織形成をしたいという意志が必要だということです。 今日の聖書では出エジプト記では天幕(礼拝をするところ)造りが、使徒言行禄では教会形成が示されていますが、これを組織と考えても通用することとおもいます。 友達、恋人、夫婦、家族、サークル、勉強会、自治会、会社、学校、学会、自治体、国家、人類まで、その他、いろいろな組織がうまく機能するときは組織の構成員一人ひとりの気持ちがその組織形成に貢献しようという気持ちになったときだということです。 そうか、と思います。自分の所属している組織に自分はどれだけ貢献しているのだろうか、と思ってしまいます。なんていい加減な貢献度なんだろうと。 聖書はこうして回答をしめしつつ、しかし、そうはできない人間の姿、自分の姿をも示しています。悲しいかな、主よ、憐れみたまえと、祈るのみです。 しかし、聖書をみるに、ある一時期にせよ、人が自ら自主的捧げて、組織が働いた出来事が示されています。ですから、主よ、憐れみたまえと祈る中に、主と共に働き、心動かされ、主が必要とされる教会やその他の組織とその働きがこの地にも実現されていくことも期待している私でもあるのです。心動かされる・・・これにはどうしたらよいものでしょうか?私のような神体験経験者がそれを語り続けていくことなのかもしれません。 皆様の祝福をお祈りします。