出エジプト記34章1~10節、マルコによる福音書8章1~10節 平和の共同体の心得「慈しみを守り罪を問う」 自分の人生を振り返ってみますとこれまでいくつもの罪を犯してきました。小さい頃は桃を盗みました。水泳禁止の場所でも泳ぎました。人を馬鹿にもしたりしました。いじめもしました。学生のころは外にあったコーラを盗んで飲みました。人を恨んだり、嫌ったり、裁いたりは今に至ってもあることです。その他にもここに上げられないような罪も、上げ切れない罪も私はたくさん犯しています。しかし、現実に謝った時には許されてきたこともありました。桃を小学生の4.5年生の頃盗んだのですが、小学校6年生頃になって、「過ちては改むるに憚ることなかれ」(論語)と父親に教えられたこともあってか、盗んだ家に行って謝ろうと思って、1年も2年も前のことを謝りに行ったのです。その家のお母さんは、「ずいぶん前のことでないの。いいの、いいの」と赦してくれたことを憶えています。 本日の聖書の箇所は、イスラエルの罪の問題を端的に示していると思います。つまり、神への裏切りです。金の小牛を造って、それを自分の神とした、裏切り。夫婦で言うなら浮気をしたパートナー。その裏切り者に対する神の態度を示しています。神と人との関係性を示した十戒。これをモーセは自ら壊して破棄したのです。神は、モーセのとりなしよって、罪を赦したのですが、モーセの方から 神との関係を切ったのです。しかし、神はその順を戻そうとします。それが十戒の再授与ということになります。神と人との関係を続けようということをモーセに示します。そして、神側からモーセに語った言葉「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし、罰すべきものを罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う」と語ります。ここから、神は罪の赦しは永遠に続くが、罪を問うのは4代までと短いことが分かります。更に新約聖書の本日の箇所はお腹がすいている4000人に7つのパンと少しの魚で満腹にした奇跡が示されています。しかも、これは繰り返してなされるというようにマルコ福音書やマタイの福音書には同じような奇跡が2度も示されています。 わたしたちはこのような神と共に暮らしています。そして、現実に、真実に自分の罪を申し出た場合、赦される経験をもするものです。どんな人でも良心とはそういう赦しが基にあるのではないかと思います。わたしたちの神が赦してくれるなら、わたしたちも罪を告白された場合は赦していきたいと思います。さらにお腹がすいている4000人にパンを与えた慈しみをもイエスから学ぶものです。困っている方々と共に、小さな自分でもできることがあると思います。それを、諦めるのではなく、模索し続けていきたいと思います。 皆様の祝福をお祈りします。