出エジプト記32章1~14節 ルカによる福音書23章34節 288、311(1・3・6節)、315 平和の共同体の心得「とりなし」 最近、旅行積立金を30000円欲しいから、上司に言ってくれと頼まれました。上司へ進言するわずらわしさや、そこでのやり取りの気まずさなどを、私に任せると言いますか、私が被るということになります。聞きたければ自分が聞けばいいものを思ってしまうわけです。 今日の旧約聖書の話は、イスラエルの民の背信行為とモーセの執り成しが書かれています。イスラエルの民はモーセがいなくなると、自分たちの本当の神を見失い、自分たちを先立って進む神々を造ってくれというようなことをアロンに申し出ます。そして、民全体に金の耳輪を外し集め、「金の小牛」を造りました。彼らはエジプトから金銀財宝も戴いて来たようでした。(出エジプト11:2, 12:35) 金の小牛となると、カナンの地方の豊穣の神を思い浮かびますが、ここでは違います。自分たちの神を造ったのです。オリジナルの神を造ってしまいます。「金の小牛」は明らかに神でないと知りつつ、神にしたてた偽りの神だったと思われます。偶像礼拝。人間が作り出した神に仕えることでしょう。「私以外神があってはならない」という神の命令に背いてしまいました。主はそれを知り、モーセにイスラエルの民を滅ぼしつくすと言います。 ある牧師が言っていますが、人間は、あるいは地上の目に見える教会は、神を造ってきていたのではないか、そして、今でも目に見える確認できる神を人は求め、それに教会が加担しているのではないか。ある意味、今日の旧約聖書の金の小牛つくりを人間はし、ルカ23:34でイエスが言っているように、我々は何をしてるのか分からないでいるものではないか、とも思われます。 【神の意志は変わる!】 旧約聖書では神の思いが変わる場合には次の3つが挙げられている。 ①とりなし(アモス7:1-6)②悔い改め(エレミア18:3以下、ヨナ3:6-10) ③ヤハウエの思いやりの性格(士師2:18、サムエル下24:16) 【モーセのとりなし】 モーセは主にとりなします。11節~12節「主よ、どうして、ご自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出した民ではありませんか。どうしてエジプト人に『あの神は、悪意を持って彼らを山で殺し、地上から滅ぼしつくすために導き出した」』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめご自分の民に下す災いを思い直してください。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼ら自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか」 このモーセのとりなしによって、イスラエルの民は命が救われましたが、モーセの判断により、主の側に着かないものは約3000人が命を落としましたようです。そして、イスラエルの罪は赦されたわけではなく、罪びとのまま、カナンの地に向かうことになりました。「裁きの日に、わたしは罪のゆえに罰する」(34節)と言われています。 モーセのとりなしは不十分でしたが、それでも、人の神へのとりなしが神の思いを変えるということということもあり得るとは驚くべきことです。とくに滅びから生きることへ、破壊から創造へと思いを変えることができる神であるなら、私はこの神に祈りたいと思います。この歴史は人間の神への態度で変わり得る、この世の中を、神様と共にコラボレーションしていける、そういう信じがたい神が私たちと共にあります。神からみれば、罪人で滅ぼされるしか値しない私からみれば、神様にはたいへん恐縮ですが、嬉しい限りです。感謝します。