出エジプト記26章15節~35節 ヘブライ人への手紙9章1~12節 説教 人に神が宿るなら 明けましておめでとうございます。 昨年中はこの罪深い私を牧師として扱っていただき、厚く御礼申し上げます。 教会という聖なる信仰共同体の一員に自分でもよくなっているなってときどき思うんですがね。自分は本当に罪びとだと思いますよ。 昨年はテロの歳で、今年になって北朝鮮では水爆実験したと言いましたり、本当に人の破壊行動が目立ちますよね。犠牲になるのは被支配者、弱き人たちです。 話は変わりまして、自分のことになりますが、年末ジャンボ宝くじかいまして、今回は前後賞付きで10億円ですよ。 10億円ってどのくらいのお金だと思いますか?一日1万円使って、270年過ごせるですよ。すごいお金ですよね。当たりませんでしたけどね。今は拝金主義の時代になったということを佐藤優という方がおっしゃってましたね。 また、今年は整理整頓をやろうと思いまして、近藤麻理恵という方の、毎日がときめく片付けの魔法、という本を読みました。昨年の世界で影響を与えた100人の中に入った人なそうで、片付けの方法を勉強したりしましたが、なるほど、と思えることが書いてありましたネ。片づけは、片づけるんじゃなくて、ときめく人生を送るための方法なんです。片づけで大事なのは、自分がときめく人生をおくるためなんだということを強調していくんですね。そういいながら、具体的に片づけるのは衣類からとか具体的に出してくる。わかりやすくですね。写真は最後にしないと片付かないとかですね。それから、本は読まないで、触ってときめくものだけを残す、とか、捨てるときは、自分に押しえてくれたことを感謝して捨てる、とか、物が語りかけてくるのを聞く、とかですね。神秘の世界に引き込まれていきます。物を大切にする精神があるんですね。靴底をいたわるとか、玄関をきれいにするのは鳥居をくぐるのと同じだとか、神社の巫女さんをやっていたようで、穢れを清める考え方もあるようですね。これ読んでいてアミニズムなんじゃないかと思いました。 私は確認しておきますが、父と子と聖霊の神を信じる者です。聖霊というのは助かりますね。これはなんだかよく分からい、捕えところがありません。父はエホバ、子はイエス、よく分かりますが、聖霊は見えないのでよくわかりませんが、そういう神であるということを信じるとなると、太陽が神とか人が神とか、理性で神が分かるとかいうこととは、一線を画すことが出来ます。現在は非常に戦争に近づいています。人は戦争のスイッチを入れますが、神は十戒で殺害を否定し、イザヤ書⒉章4節で武器をすべてなくす世を目指しています。わたしたち信仰者は固く、聖書の示す神の言葉に耳を傾けることが今非常に重要になってきているように思います。 何が罪か、罪でないかを判断するとき、十戒を参考にして考えてみたり、ガラテヤの信徒への手紙5章やコロサイの信徒への手紙3章を参考にしますが、ガラテヤ信徒への手紙5章19節から見ますと、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他この類の物です。 これに対して霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。 礼拝を捧げたり、罪を清めたりするための聖所や至聖所を作りなさない、という神の命令が本日の出エジプト記に出てきます。しかし、「作りなさい」と命令されていますが、その聖所に神が宿るとは言ってはいません。「神は作る人の中に宿るでだろう」(出エジプト記25章8節)とあります。聖所や至聖所を作ることによって、人に神が宿るであろう、そこで捧げる礼拝、罪の赦しの捧げもの(動物の血)によって、神が人々に住まわれるだろうと語りました。 しかし、人の罪は、この規定を定めても、守り切れず、神が人々の中に宿れなかった、あるいは不十分だったということが、旧約聖書に示されているのだと思います。それだけ、人は罪を犯すことからはどうしても離れることができなかったということを示しているのでしょう。 そこで、イエスが登場しました。彼は、罪の赦しの捧げものとなられました。そして、私たちに神が宿るようになったのです(コリント信徒3章16節)。だから、私たちは神の御心を行うようになっていのだと思います。罪は犯してしまいますが、赦さて歩めるようになっているのでしょう。罪人でもありつつ、神の御心も行えるようになっている、2面性有しているということだと思います。 毎朝4時に起き、礼拝を捧げていたマザーテレサ。『死を待つ人の家』の貧困や病気で社会から捨てられた人々の看取り(ホスピス)の施設を作ったマザーテレサも神の不在感に死ぬまで悩んでいたということが分かりました。黒人差別撤廃に力を注いだキング牧師にも愛人がいたとのこと。これらの例は人は罪人でしかありえない、しかし、神様の業も行い得るという2面性を有しているのだと思います。そういう私も「神に使えるエロ牧師じゃないか!」と知人から言われる始末です。できるだけエロ牧師にはならないように祈り努力するつもりですが。 最近、カールバルトの教会論、という本を読んでいますが、 それによると、カールバルトは、教会を旧約のイスラエルと同じように解釈しているらしいのです。 つまり、神から見捨てられる危機にあるのが教会である、という理解です。イスラエルが罪を犯しているように、キリストの教会も罪を犯しているんだと、ということです。教会は聖なる場所ですが、それは、恐らく、罪を認め、悔い改めること以外では、聖なるものになることができないからではないでしょうか? 教会が教会であるためには、自分の罪や自分たちの罪を認め、それを、イエスの十字架によって、赦していただいているという、悔い改めの信仰によって、のみ、建っていき、続いていくものでしょう。罪びとがいなくなったら地上の教会はあり得ないと思いますし、罪びとで悔い改めがなければ、教会は建たないでしょうし、続いていかないでしょう。十字架が教会の象徴として見える形であるのは、間違っていないように思います。それが偶像礼拝かもしれませんが、そこに、悔い改めが生じるのであれば、大丈夫なのではないのかと思います。 罪人でありつつ聖なる者にもなり得るなら、これこそ、全人類にとって救いであり、希望ではないのでしょうか。主、イエスキリストの十字架に感謝しつつ。悔い改めて破壊されつつある小さき命を大切にしていきましょう。 皆様の祝福をお祈りします。