聖書 出エジプト記25章1節~26節
   コリントの信徒への手紙一3章16~17節 
説教 平和の共同体の心得「あなたがたの中に住む神」 

 最近、梶田さんという方がニュートリノに質量があるというような常識を破る発見をされ、ノーベル物理学賞を受賞されました。現在は物理学という学問が急速に新発見の現象を見出してきたようです。それが見に見えないものなんですよね。


 神様の宿るところは、どこか、という問いに対して、旧約聖書でも、新約聖書でも、人に宿るということを示しています。人間の作った物には宿らないということを聖書を通して、神が語っているように私は思います。コリントの信徒への手紙一3章16節には、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいるのを知らないのですか」と語られている次第です。
 本日の出エジプト記は礼拝する場所である幕屋や祭具を作るように神から命令されている場面です。その後、出エジプト記31章までその幕屋の構成要素や祭具やその使い方である儀式や活動など(箱、机、燭台、幕屋を覆う幕、幕屋の壁板と横木、至聖所の垂れ幕、天幕の入り口の幕、祭壇、幕屋を囲む庭、常夜灯、祭服、祭服や祭具等に使われたらしいエファド、胸当て、上着、額当て、アロンとその子らの衣服、祭司性別の儀式、日ごとの捧げ物、香をたく祭壇つくりと香のたき方、命の代償の仕方、手足の清め、性別の油、香料、技術者の任命、安息日の厳守)が事細かに示されています。聖書は、こういう物や儀式などには神は宿ると言っているかというと、そうは言っていません。今日の出エジプト記にも「わたしのための聖なる所を作りなさい。わたしは彼らの中に住むだろう(8節)」と言っているからです。
 では、この幕屋や祭具、儀式等にはそういう意味があるのでしょうか?この出エジプト記が書かれたのはイエスラエルの民がバビロンに捕囚されていた時期から捕囚解放後直後であろうと大方の研究者は語っています。その時記は、彼らの持っていた幕屋、神殿、祭壇、儀式の執行、宗教活動が失われた時であったと思われます。そうだとすると、聖書編集者は、失われた信仰的活動をもう一度復活させたいという思いでいたのではないかと思われます。ここには、すべての外面的信仰的活動を失ったイスラエルの信仰者、祭司らのこれまで培ってきた信仰的活動を再び取り戻したいとする聖書編集者の熱い願いや強い信仰が見て取れるように私は思います。
 幕屋や祭具、儀式執行など信仰的外面的活動をすべてを失っても、また、復活できる、希望をもってやっていけるという信仰。この信仰が少なくともイスラエルの聖書編集者にはあったのでしょう。なぜでしょう。それは彼らの中にに神が住んでいたからなのではないでしょうか。わたしたち、あなたたちにも神様が住んでいると聖書は語ります。ですから、どんな人でも、建物や活動など外面なものすべてを失っても復活の希望を抱きつつ暮らせるということにもつながることだと思います。
なんと嬉しいことでしょう。皆様の祝福をお祈りします。