聖書:出エジプト記24章1-18節、ルカによる福音書2章10-12節 平和の共同体の心得「神の顔を見る」 顔を見るということですけど、ジーっと見られると恥ずかしいですよね。牧師の説教の研修とかでも、原稿みようと下見ないで、みなさんの顔を笑顔で見て、やりましょう、などということがありますが、ひねくれ者で、罪深い、心の黒い、私にはそんなことしたら、顔が引きつってしまって、こんな顔になってしまいますよね。作り笑いっていいますか、そんな風に不自然になってしまいますよ。罪びとは罪びとらしく、下を向いて、主を輪が罪を赦し給えっていうしかないと思います。 本日は、そういうことではなく、神の顔を見る、というタイトルになっていますので、ちょっと様相が違うわけです。 私の信じている神について、聖書にはおかしいなあと思うところがたくさんあるのですが、その一つが、神の顔を見るとその人は生きていけない、ということになっていることです(出エジプト33章20節)。しかし、本日の出エジプト記24章11節には「神はイスラエルの代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。」とあります。 聖書は多様な解釈ができるような書である。多様な思想が読み取れるのが聖書であると、金井という旧約聖書学者が言っていますが、私も旧約聖書を読んでそう思います。神の顔を見て死んでしまうというのは現実には、どういうことでしょうか?触ったら死ぬとかというのは放射能やエボラ出血熱とかそういうふうなものですよね。あるいは眼を付けたなと言ってやくざみたいな人に殺されるとかいうことでしょうか?東田直樹君という自閉症の詩人、作家がいるんのですが、その方が一番怖いことが、「人の視線なのです」彼は「人の視線が怖いです。人はいつも突き刺すような視線で見ます」というのです。そういわれればそうですね。私は他人の視線を無視するか、あまり気にしないようにしているのかもしれません。そして、自分もあんまり人を見ないようにしていますね。しかし、じーっとみられると体がおかしく感じることがありませんか? 化粧をしている母親をじーっと見つめていたら、そんなに見るなって言われたりしたことを覚えています。 また、東田君は桜の季節にこんなことも言っているそうです。 「僕はきれいな桜を長く見続けることができません。それは桜の美しさがわからないからではありません。桜を見ていると、なんだか胸がいっぱいになってしまうのです。繰り返す波のように心がざわざわとかき乱されてしまいます。その理由は感動しているからか、居心地の悪さからくるのかは、自分でもよくわかりません。分かっているのは、僕が桜を大好きだっていうことです」 大好きな者を見るとき苦しくなるということがあるんですね。何かすごく感動したときに死んでもいいと思う心境。そういうことが私たちにあるのではないでしょうか? それだけ神を必要とする信仰を、神の顔を見たものは生きてはいけない、というような表現を取ったのではないでしょうか?なんとなく分かるような気がします。運命共同体ですね。太宰治の男と女の関係でも最後は心中。男にとって女は神であり、女にとって男が神のようだったのかもしれません。人は神のために死ねるともいうような考えが、「神の顔を見た者は死ぬ」と表現したのかもしれません。 しかし、本日の聖書の箇所は、神の顔を見て、みんなでわいわいやったっていうことですよね。権威も何もなくなって、まあ、普通のおっちゃんみたいな雰囲気になったという話ですよね。こういうところを書いた人って、神概念を壊しました人ですよね。つまり、ここはですね。「神の顔を見た者は死ぬ」というそういう立派で深刻で素晴らしい神でありつつ、そんな、堅いこと言わないで、まあ、食えや、飲めや、っていう気さくさが同居している神であるということを、私たちに示してくれている箇所です。 また、本日のルカによる福音書にはイエスの誕生にあたっては両親はもとより羊飼いらも救い主(神)の顔を見ています。更に、イエスとともに暮らした人たちはイエス(神)の目撃者となっていました。ここは有名な箇所ですね。天使は言った。「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、メシアである。あなたがたは飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしとなる」 羊飼いに「恐れるな」と言いますね。羊飼いはリラックスして赤ん坊をみたとき、なんといいまでしょうか?今でいうなら、恐らく、子ども好きなおじさんが、「おろろろろ、いないいないば~」こんな感じになってしまいます。顔を見たら死んでしまうような神が、いないいないばーされてしまう神にされてしまうんですよ。この格差がとてもおもしろいですね。神は、いないいないばーをされる神です。かわいい神です。 聖書をかいた人たちは信仰の革命家だと思います。神のありようの多様性ということが伺えますよね。顔を見たら死んでしまうような神から顔を見ても死なず、食えや、飲めやのどんちゃん騒ぎのような状態でもあり、さらに、いないいないバーされる、神。十字架につけば、殺されてしまうような神でもあり、そしてまた復活するような、不死身な不思議な神という状態(ありよう)にもなっています。 人は罪人であり、人は神によって裁かれ死すべき存在であるということは多くの信仰者の認めるところです。しかし、神は罪を赦す神であり、共に食事をしたりもする神です。さらに、いないいないばーと可愛がられもし、殺され、復活もする神。 すべての罪はイエスの十字架刑によってあがなわれたということも信仰者の信じるところです。ということは、神は、死んだ方がいいと思う人を赦し、生かし、顔と顔を合わせてくれる付き合いをしてくれているのだと思います。 人間の付き合いもこれに似ているのかもしれません。あんな人死んだ方がいいと思うような人とも、赦し、顔を合わせて食事をし合う、そういう関係が、家族、友人、同僚、地域社会、あるいは国家や、世界の平和を保つためには必要なのでしょう。 みなさまの祝福を祈ります。