聖書 出エジプト記23章1節~26節 マタイによる福音書11章28節 説教 平和の共同体の心得「休む」17、423、493 鳴子教会の牧師の名前は『小林休(ゆたか)』。「休む」などと言うことばをよく名前につけたものだと思います。わたしたちは「休む」ことを「働く」ことよりも評価していないのではないでしょうか?あるいは「働く」ために「休む」というように休むことを働くための手段としてはいませんでしょうか。本日の旧約聖書出エジプトの箇所は神との契約で人間が守らなければいけないことが6つ書かれているのですが、その中に「休む」ということが2か所あります。一つは畑は6年耕したら1年休ませなければならないということ、もうひとつは、6日間自分の仕事をしたら、7日目には仕事を休まなければならない、ということです。不思議なのですが、聖書は十戒も含め「働け」という神からの命令は出てこず、「休め」と言うのです。神様からそれぞれ個人に与えられた才能や能力は発揮するようにといいますが、聖書は、無理に働けとは言わず、むしろ、無理しても休めというように、休むことを意図的に強調しているように思われます。本日の新約聖書マタイによる福音書11章28節は「疲れた者、重荷を負う者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスの言葉です。「休む」ことは神の命令であり、神の業のようです。神は我々に「休め」とかなり強く命じています。さまざまな働きが超多忙で休みなくなされている現代。コンビニにせよ、ネットにせよ、24時間休みなし。「休め」の神の言葉に従うにはかなり抵抗を感じます。働き続ける現代社会では、堂々と「休む」ことは奇跡的で神業とも思えます。「休む」ことに努力し、「休む」ことができましたら神業だと感謝する暮らしを送っていきたいものです。 聖書という書物は、私たちに意外な価値観を提供してくれるんです。普通じゃないんです。人間社会一般では、善く学びよく遊べ、よく働けですよね。よく休めとは病人にしか言いません。休め、というのは聖書のこの十戒だけではありませんか。それだけではありません。人が神のようになるのを嫌ったりもします(バベルの塔)。 栄華繁栄を求める世に対し、神は弱者を守るように進めます。まるでこれが人類の目的のように語ります。 武力があたり前の時に聖書はイザヤ書⒉章4節剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。 99匹を残して1匹を探すとか 4000人や5000人の人たちに5つパンと2匹の魚で満足させたとか 8時間働いた者も1時間働いた者も同じ給料もらえるとか 復讐するな。右の頬を打たれたら、左の頬もだせ、とか イエスの十字架が罪を贖ったとか、普通は罰金とか禁錮刑とか懲役でしょう。 死はなく、復活するとか、永遠の命があたえられるとか、 こういう意外なことを述べています。 明らかに現実離れしているような夢物語とも捉えられます。 しかし、それを私などは信じています。 そうすることで生きる希望が与えられると思います。 クリスマスに子どもが本当にサンタクロースがやってくると信じているような希望です。 この意外な聖書のメッセージにはそういう生きる希望が含まれているようにおもえてなりません。 本日は「休む」ことを神様からすすめられましたね。 心身によいだけではなく、このことで神の業をこの地に表していることでもあ ります。私たちは「休む」ことにもっと大きな意義をみいだすべきなのかもしれません。