聖書 出エジプト記21章12節~17節、マタイによる福音書5章38節~42節  
説教 平和の共同体の心得「神から与えられる自由」 

 聖書には矛盾した箇所があります。本日の出エジプト記21章12節「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」、15節「自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる」、16節「人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手の元においていた場合も、必ず死刑に処せられる。」17節「自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる」とありますが、「汝殺すなかれ」の十戒と矛盾するところです。これら死刑については主がモーセにイスラエルの民に語りなさいと語った(20章22節)とありますから主の言葉というように受け止めることができます。
 さて、ここで戸惑ってしまいます。旧約聖書の神学者には、本日のような刑罰ができる背景には「ハムラビ法典」(バビロンの国の法律、復讐を最低限の被害に抑えること、弱者救済など今見ても優れた法とされている)の影響を受けていると言っている者もいます。イスラエル国は後に、バビロンの国(当時の世界の最大の先進国、今のアメリカのような国かも!)に滅ぼされ、捕囚の民になってしまいます。捕囚の時代に、イスラエルの民は旧約聖書の法の部分(律法)を書いてたのではないかというのです。ハムラビ法典を学び、あるいは身をもってその法の下に置かれ、しかも、捕囚という屈辱の身分。彼らはなんとかしてハムラビ法典を超える法体系の律法を作ろうとしたのではないでしょうか?その理由に、ハムラビ法典では「両親に暴力を奮った者は手を切り落とされる」とされていましたが、イスラエルの民の刑罰の方は「死刑」と厳しくなっていることなどが考えられます。イスラエルの民のそのようなプライド、国民性を保とうとするナショナリズム、また、神から聖なる民として選ばれたという選民意識から、人道的な崇高さを守ろうとする気持ちは分からないでもありません。しかし、それが乗じて行って、ついに、律法の色々な諸規則を守らなければ救われない、というような、神の一方的な救いの応答として律法を守るという、神の本来の意思とは異なった道に歩んでしまったことも否めないと思います。
 イエスはその律法の用い方について提案します(本日のマタイによる福音書)。「目には目を」「歯には歯を」で知られるハムラビ法典式の復讐をできるだけ軽くするために作られた律法の中の刑法についてイエスはいかなる復讐もするな、と語ります。罪に対する刑罰の撤廃。なされるままにされなさいというのです。「これではまずい」と誰でも思うでしょう。自分はともかく、自分の大事な家族などを殺されても復讐はするな、というか・・・しかし、イエスはそうだというのです。人は誰でも救われた、永遠の命を得た、だから、復讐はするな、とイエスは言いたいがようです。そんな訳ないだろうと信仰のない我々はイエスを十字架につけ、この世から葬り去りました。麻原みたいな奴、高校生をみんなでレイプして殺し、ドラム缶に入れコンクリート詰にして隠した奴ら、人を自殺に追い込む奴ら。そんな奴は死刑でいいと思っている私。しかし、ここからが神秘。妄想でしょうか?イエスは復讐はするなと私の前で言い切る。そして、己は十戒を守れ、律法を全部守れと私に迫ってくるのです。「清栄の救いは終わったんだ。だから、清栄は復讐しなくていいだろう。イエスに任せなさい。清栄は律法を守るようにだけしなさい。」こういう声が聞こえるのです。そして、この声に従うという道もあるんじゃないとも、思うのです。もやもやしますけどね。しかし、こういう自由もあるんじゃないかと、もやもやとした自由ですね。

皆様の祝福をお祈りします。