出エジプト記20章1節~21節
マタイによる福音書5章17節~18節  
讃美歌21 548 357 510
説教 平和の共同体の心得「十戒は戒めに非ず、神の恵みの言葉なり」 

 出エジプト記のクライマックス
 旧約聖書出エジプト記の第20章に入ります。本日の第20章には、イスラエルの民が、主なる神様から、いわゆる十戒を与えられたことが語られています。このことが、出エジプト記のクライマックスです。これまでの、エジプトからの解放、脱出の血湧き肉踊る物語は、この十戒を与えられるという出来事に向けての言わば備えだったのです。この出エジプト記を題材にした「十戒」という映画が昔ありました。モーセの生い立ちや、兄弟のように育ったエジプト王ファラオとの確執、逃亡先での主なる神様との出会いとエジプトへの派遣、そして神がエジプトに下された様々な災いによって遂にエジプトを出ることができたこと、しかし心変わりしたファラオの軍勢が追ってくる中、海の水が左右に壁のようにそそり立ち、その間の道を通って向こう岸に渡ることができた葦の海の奇跡などが描かれていました。この映画の最後は、十戒を授かることを中心としたシナイ山における場面となっています

 律法
  十戒は、神様からイスラエルの民に与えられた「律法」と呼ばれる掟、戒めの中心です。これ以後イスラエルの民は、十戒を中心とする律法を持って生きる民となりました。それが、神様とイスラエルの民の間の新しい関係の具体的な姿です。その律法が、出エジプト記のこの後の所、また次のレビ記の全体、民数記の一部、そして申命記に語られていきます。ですからこの後のところは、物語の部分よりも掟、律法の部分が多くなっていくのです。そして後に旧約聖書が今日の形に整えられていく中で、最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記はまとめて「律法」と呼ばれるようになりました。

 契約
  さて、先ほど、十戒が与えられたことによって、主なる神様とイスラエルの民との間に新しい関係が生まれ、新しい時代が始まった、と申しました。その新しい関係、新しい時代とはどのようなものだったのでしょうか。実は、神様とのその新しい関係、新しい時代は、十戒によって生じたものではありません。十戒がその新しい関係や新しい時代をもたらしたのではなくて、神様との新しい関係、新しい時代が始まったことのしるしとして、十戒が与えられたのです。それでは、神様とイスラエルの民との間の新しい関係、新しい時代をもたらしたものは何だったのでしょうか。それは、主なる神様がイスラエルの民と契約を結んで下さった、ということでした。このことについては、先月、19章を読んだ時にお話ししました。19章以下には、シナイ山における出来事が語られていきますが、その中心は,、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。主なる神様は、イスラエルの民をエジプトから解放し、ここシナイ山へと導いて下さいました。それは彼らと契約を結ぶためであり、それによって彼らイスラエルが、主なる神様の宝の民となり、「祭司の王国、聖なる国民」となるためだったのです。祭司というのは、本日のヘブライ信徒の手紙5章2節に「大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」とあります。

 選ばれた民
  イスラエルが神様に選ばれた民となると申しました。「選ばれた民、選民」というと、何か鼻持ちならない優越感、エリート意識を持っている人々というイメージがあるかもしれません。それについては、申命記の第7章6~8節を読んでおきたいと思います。自分たちは神様によって選ばれた民である、ということをイスラエルの人々がどのように受け止めたのかがここに語られています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。このように、選ばれた民であることは、他の民にたいして優越感を持ち、自分たちは優れた民であると誇るようなこととは無縁なことです。「他のどの民よりも貧弱であった」自分たちを、主なる神様がただ愛のゆえに選び、救い出し、ご自分の民として下さったのです。それはただ感謝すべきことであって、誇るようなことでは全くありません。

  倫理道徳の教えではなく
 
 「わたし」と「あなた」
  十戒が道徳の教えと違うことをはっきりと示しているのが、この20章の2節の言葉です。3節から第一の戒めが始まるわけですが、その前にこの2節があるのです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。主なる神様はイスラエルの民にこのように語りかけ、そして3節以下の十戒を与えておられるのです。「わたし」と「あなた」という言葉に先ず注目したいと思います。ふつうの雑談、会話としての言葉。

  十の言葉
  導きの言葉
  自由の言葉
 旧約と新約を貫いて
 さて、十戒は、主なる神様がシナイ山においてイスラエルの民と結んで下さった旧い契約において与えられたものです。私たちは、神様が独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えて下さった新しい契約に生きている者です。私たちと神様との関係は、新しい契約に基づくものなのです。その私たちにとって、旧い契約、旧約と結び付いた十戒はどのような意味を持つのでしょうか。旧い契約も新しい契約も「契約」です。契約によって築かれる関係の本質は、どちらにおいても変わることがありません。その本質とは、双方が約束をし、その約束を誠実に守ることによって成り立ち、維持される関係である、ということです。主なる神様はご自分の民との間に、常にそういう関係を築こうとしておられるのです。イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放して下さったのも、イスラエルの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブとの約束を神様が誠実に守って下さったということでもありました。そのようにご自分の約束に誠実であられる神様との契約に生きる者には、同じ誠実さをもって神様との交わりに生きることが求められるのです。十戒は、この、神様との交わりに生きる民の基本的なあり方を教えているみ言葉です。それゆえにこれは、旧約と新約を貫いて、神様の民として生きる者全てに与えられている導きの言葉なのです。私たちは、神様が主イエスによって築いて下さった関係を大事にして、神様の恵みと愛に応えて、責任をもって神様と共に生きるために、十戒を大切にしていくのです。
  ローマの信徒への手紙第3章21節以下で、パウロは、今やキリストによる神の義、ただキリストを信じることによって与えられる救いの恵み、福音が示されたことを語っていますが、その神の義は、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて示されていると言っています。旧い契約における律法は、キリストの福音による新しい契約を証しし、指し示しているのです。その中心にあるのが十戒です。そういう意味で十戒は、キリストの福音を指し示しているのです。私たちは、十戒を守ることによって救いを得るのではありません。むしろそれを守ることができていないことを示されます。自分が神様の恵みと愛に応えて、責任をもって神様と共に生きていない罪人であることをはっきりと示され、思い知らされるのです。しかしそのような罪人である私たちに、ただ神様の愛によって、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みによる罪の赦しが与えられています。私たちはその救いにあずかり、神様の契約の民として、神様の恵みと愛に応えて生きていくのです。十戒は、その私たちの生活を、責任をもって神様と共に生きるように、人として一番その人らしい暮らしをしていくために与えられている恵みの十のみ言葉なのでしょう。