説教:苦難と共にありつつ、苦難から逃れる希望 【栄光の中に在る苦難】 ソチオリンピックで優勝した羽生結弦の凱旋パレードが5月28日に仙台でありました。華やかな10代ですけど青春の日々をオリンピックに捧げるというのもある意味狂気じゃないかと思います。負けても勝っても、まあぁ、集中してできてよかったな、みたいな感覚でする方がいいですね。好きだからする、オリンピックはそのくらいに軽く考えてやっていきたいものです。が、実際はほとんどすべての選手は怪我をしたり、スランプに陥ったり、もちろん、苦しい練習や栄養管理や生活の管理など、栄光をつかむには苦闘の暮らしの覚悟が必要です。 【苦難はついて回る】 イスラエルの民は常に問題を抱える民のようです。今日の出エジプト記にはイスラエルの民が過酷な労働をエジプトの国から課せられ、虐待を受けていたことが記されています。エデンでもエデンから追放された地でも、カナンでもエジプトでも、エジプト脱出においても、イスラエル王国を作っても、聖書は決してハッピーエンドにはしません。イエスが生まれたあとでもローマ帝国でもヨーロッパでもアメリカでも、ロシア、アジア、日本でも、どこでも、人間の存在は、ハッピーエンドでありましょうか?もうこれでいい、ということがありえましょうか?「花は咲く」の歌にもありますように、「私は何を残しただろう」という気持ちが私の場合正直なところです。人間の生と死は、いつも、問題提起の場であり続けています。マルコによる福音書13章5-13節にはこの世の中にはだんだん苦難が多くなることが書かれています。そして、キリスト者の苦難が示されています。私も行くところ行くところには、苦難がついて回りまっています。苦難がなけりゃいいなあとも思いますが、無理です。年を取れば、足腰が立たなくなり、日常生活にも時間がかかってしまいますね。家庭でも苦言を言われ、職場でも失敗したりして、いろいろ苦難はつきものです。 【苦難から逃れる道】 聖書をみますと、人間生きているところには必ずと言っていい程、どこにいても苦難があるということが示されているように思います。そのことによって、この自分の暮らしも致し方ないかと気軽になります。むしろ、苦しみに預かることが、イエスの似姿になっていくのかと、苦しみと共にありつつ、自分もキリスト者として当然の報いを受けているのかなと、少し喜びさえ覚えることさえあります。それは、イエスが、当時、最大の苦しみい刑と言われた十字架の苦しみを経験し、そして、復活されたからです。今受けている苦しみは決してそのままでは終わらない。イエスが十字架の苦しみをへて復活したように、私たちの受けている苦難、苦しみも、いずれ、解放される時がくるとい希望をもつことができます。アウシュビッツにおられて、囚人の生活から、生き残った人々の共通点は、次のようなことだったようです。一つには自分の過去の暮らしに楽しかった思い出があり、そういう思いに耽ることができた、ということ。2つめは、今の日常の暮らしでさえ、美し事や、楽しいことを発見できた、例えば、夕日がきれいとか、笑顔が素敵とか、声がきれいとか、ごく当たり前のことに感動をおぼえることが出来たということ。3つ目には、愛する人がいたということです。家族でも友人でも知人でも誰か気になる人、自分を待っていてくれると思える人がいたということらしいです。 【旧約聖書の書かれた意図】 私、最近思っているんです。旧約聖書が編集されたのは、バビロン捕囚あたりではないかといわれています。つまり、イスラエルの民が国を失い、国という拠り所を彼らが失ってしまった状態のときに編集されたと言われています。だとすれば、旧約聖書には、国を失ったイスラエルの人々の苦しみの暮らしをなんとかして救ってやろうという意図があったのではないか思われます。旧約聖書の読み方によっては苦難からの救いが読み取れるのではないかと思っています。否、神はエジプトの苦難からイスラエルの民を解放し、救った神なのです。 【耐えられない試練はない】 コリント信徒への手紙第一10章13節には「あなたがたを耐えられないような試練に試練には遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、脱出の道を備えていてくださいます」の言葉に私は単純に希望を与えられて、苦難が共にある暮らしを続けて行けているのかと思います。 皆さまの祝福を祈ります。 (2014年6月1日柴宿教会礼拝説教)