平和の共同体の心得 「多忙な時」 

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第18章1-27節(朗読13-27)
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第10章1-12節

仕事って、忙しいときに限って、これでもかあ、これでもかあ、と重なるものですよね。今年は、施設の全国研修っていうのがあって、私実践発表をすることになったんです。7月10日ですね。6月26日は学会。7月17日は気仙沼の発達支援を考える会勉強会。11月28日29日は子供の発達支援を考える会全国研修と結構大変なんですね。今年はビッグな年なんですね。私にとっては。まあ、これが最初で最後でしょうけど。あとは、家族をみとって、家の片づけですね。できるだけ後世の人に迷惑をかけないように、家を畳むことをポジティブな気持ちで考えたりしています。

「忙しい」という言葉を使って、いろいろなことを免除してもらうといいますか、強制的におこたわり、したりしますよね。ああみそがしいから、できませんとかですね。本当はやりたうないだけだったりするんですけどね。しかしですね。これが儲けに、なるというと、人間って、夜も寝ないでやるんですって。忙しいっていうのも言わないそうです。お金は魔物ですよね。

多忙な時どうしたらよいか、この回答を本日の聖書から伺うことができます。
モーセは200万とも300万とも言われるイスラエルの民の生活上の相談役になっていたようです。小さな問題から大きな問題まで一人で引き受けていたようです。そこに丁度モーセのしゅうと(モーセの妻の実の父)のエトロがやってきます。これは祭司です。この祭司はミディアンの祭司でして、イスラエルの祭司ではありません。異なる宗教の祭司です。しかし、モーセのしゅうとであり、モーセとは40年近く暮らした人で、モーセをよく理解し、そして、モーセと語り合い、イスラエルの民をエジプトから導いた神を礼拝する人でもありました。このエトロがモーセの相談の仕方にアドバイスします。「あなたは、民全体の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長と十人隊長として民の上に立たせなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があった時だけ、あなたのもとに持ってこさせる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分のところへ帰ることができよう」と語ります。モーセはそれを聞き入れるのですが、アドバイスしたのは異教徒です。主の業を果たすときには異教徒も一緒になされるということをここから読み取れます。但し、モーセやモーセの信じる神をも信じてる方であることは間違いないのですが。
多忙なときはわたしたちは手伝ってもらいます。当たり前のことですが、聖書でも神様の業(善行と考えていいと思います)を成すとき、ほかの人から手伝ってもらいなさい、と言われると何かほっとさせられます。イエスキリスト自身の仕事、救いの活動とそのお知らせ(伝道)もイエス一人で行ったのではなく、72人の弟子にも手伝ってもらっていたことが本日のルカによる福音書に書かれています。その仕事については私もほんの少しばかりイエス様のお手伝いをさせていただいているうもりで(自意識過剰、妄想的ですみませんが)、集会で礼拝を行ったり、FBにこうして投稿させていただいたりしています。そして、それは、キリスト教ではない方々の協力を得て出来ている次第です。私一人ではとても大変で続きません。このように考えると、神の業(善行)とは信仰あるなし関係なく、みんなで協力し合ってすることではないかと思います。だれもが疲れないようにみんなで協力して善行を行っていくとよいと思います。組織というものは本来一人ではなできない善行をみんなで支えあって成していくためのものなのかもしれませんね。

それで、本日の聖書で驚くべきことは、モーセやイエスが多忙だったということです。お金にもなりもしないのに多忙だったということです。善行をするのに多忙だったモーセ、神の言葉、福音を伝えることに多忙だったイエス、多忙だったのです。そして、手伝ってもらうぐらいに善行や神の言葉を伝えることに多忙で集中していたんですね。お金を得るために多忙だったんじゃないんですよ。善行したり、神の言葉を伝えるのに多忙だったんです。すごいなあ、と思います。さて、私たちは何に忙しいでしょうか?
善行でしょうか?福音伝道にでしょうか?それともやっぱりお金でしょうか?一度問い直してみてはいかがでしょうか?

皆様の祝福を祈ります。