聖書 出エジプト記16章1節~36節 マルコによる福音書4章35節~41節 説教 平和の共同体の心得「不平不満も主にあれば」 礼拝という言葉は、サービスという英語が充てられています。私が福祉施設で言語聴覚士の仕事をさせていただいているのは、福祉サービスを提供できるからです。教会の礼拝も信仰の業ですが、福祉施設で自分のできることをさせていただけるのも、信仰者の仕事と思っているからです。 そうはいっても、この能力のない私に2足のわらじは、たやすい道ではございません。職場では自分の至らなさを非難されたり、やめてくれと言われることも時にしてあります。雑談したり、手紙を書けない人と家族に手紙を出してやり取りしたり、食べたいというおやつを提供したり、ご家族の希望を叶えるために、経管栄養のご本人にゼリーを提供したり、まあ、やってもやらなくてもいいように見えること、余計なことにみえることをしているので、ちょっとでも他の職員に面倒だと思われるとバッシングがくるんですね。たとえば、先日は手紙を家族からきたのを、読んでやろうと思ったのですが、亡くしてしまったり、年度が新しくなって、言語のリハの時間をすっかり忘れていてすっぽかしてしまったり、ぼーっとしているんですね。で、私は気が弱いんで、心が折れてしまうんです。そういうことをお構いなしに攻撃するような人もいるんです。生き残るために、優しく接してと頼んだりしています。こういう人はいいんですね。しかし、以上に辺縁系とか脳幹部の逞しい方々がいるんで、そういう人には苦手なんです。ああ、うつにならなきゃいいなあって思ってやっているんですね。わたしにすれば、今も、出エジプトの荒野です。不平不満も私にも出てきます。私はバカみたい。人を支える力も脳力もないのに、支援しようとしているなんて。職員にバカにされながら、つぶれてしまうんじゃないか?私生活だって、結婚もできないじゃないか。もう、これで終わってしまうんだ。あ~あ空しい。なんて空しんだろう、みたいになることもあるんですね。 しかし、不思議なもので、神に示された道と思えば、結果はどうあれ、すすんでいけることは、すすんでいけるんですけどね。 本日の出エジプト記16章の箇所には、エジプトの重労働から解放を望み、脱出したイスラエルの民の不平不満を神が聞き入れ、解決されたことが書かれています。文明国エジプトを出て、半月経ったころ、そこは荒野。イスラエルの民はモーセらのリーダーに不平を言います。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられたのに。あなたたちは私を荒野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」。それに対し、主がモーセに言います。「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れに肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたの神、主であることを知るようになる』と。」。実際、イスラエルの民はウズラの肉を食べ、マナというパンにありつくことができました。本日の新約聖書マルコによる福音書の箇所には、イエスが「向こう岸に渡ろう」と言って、湖を船で渡っていたときのことが描かれています。突風が生じ、船は水をかぶって水浸しになりました。イエスはこのとき、船尾の方で枕をして眠っていました。弟子たちはイエスを起こして、言いました。「先生、わたしたちが溺れても構わないのですか?」と。イエスは風を叱り、湖に「黙れ、沈まれ」と言いました。すると、風は止み、すっかり凪になったと聖書にあります。 不平不満は日常茶飯事のことです。そして、私たちは、不平不満を語ります。大抵はここで終わるのかと思います。しかし、主の言葉に従ってこの世を生きていく場合に生じる不平不満には主が責任を取ってくださり、良い方向に解決してくださると言う事を本日の旧約、新約聖書の箇所から読み取ることができます。主の言葉に従うとき、荒野や嵐などに見られるように命に関わる苦難の歩みが伴うことになるのかもしれませんが、そうであっても言いだしっぺの神様は責任を取ってくださるといいます。自分に与えられている主の言葉。日々、それを見出し、従っていきたいものです。 先週の礼拝は復活祭でした。復活のイエスは、私たちに、罪の赦しにいたる悔い改めがあらゆる人々へ述べ伝えられる、とありました。これだ、と思いました。自分にしなくてはいけないのは悔いあらためだと。さっそく、ヒアリハット書きました。手紙を無くしてしまったり、言語の時間をすっぽかしてしまったりしたヒアリハットを書きました。いちゃもんつける職員からはいちゃもんがつけられましたが、ありのままで、正直に勝負した方が、気持ちが爽やかになりますね。罪びとである私にできることは悔い改めしかできないのですから。 私の不明不満も主にあっては悔い改めに変わります。清々しさがあります。ですから、他の人の不明不満もそうなるんじゃ以下、いや、そうなると信じて、いくものです。