聖書 出エジプト記15章22節~27節 マルコによる福音書2章13節~22節 説教 平和の共同体の心得「いやす主」 「いやす」とは病気や苦しむ心を治すことです。神様は「いやす主」であるということを、本日の出エジプト記は伝えています。当時ピラミッドを作るようなかなりの文明を持つエジプトはイスラエルの民に重労働を課し、イスラエルの民は苦しんでいました。神はイスラエルの民の呻きを聞き、モーセをリーダーとしてエジプトから200万人とも300万人とも言われるイスラエルの民を乳と蜜の流れる土地(今のイスラエル周辺)へ導き出しました。エジプト軍に追われ、葦の海の奇跡(イスラエルの民は、海が2つに分かれたところに出来た道を逃げ、そこを追ったエジプト軍は、分かれた海が戻ってしまい海底に沈んでしまった奇跡)を経たイスラエルの民が遭遇したのが、荒れ野を進みながら3日間水が得られなかったことです。マラという場所に着いたとき、そこの水は苦くて飲む事が出来ませんでした。イスラエルの民はモーセに不平をいいます。モーセは主に向かって叫ぶと、主はモーセに1本の木を示され、その木を水に投げ込まれると、水は甘くなった、というのです。そして、主はモーセを試みて語ります。「もし、あなたが、あなたの神、主の声に必ず、聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしはエジプト人下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」モーセは主の声に聞き従ったのでしょう。イスラエルの民はエリムというところにつき、ナツメヤシが茂り、水の湧き出る泉のほとりに宿営できたと聖書に記されています。 本日のマルコによる福音書では、当時の主流の人々から嫌われていた徴税人たちや罪人たち大勢がイエスに従い、イエスと一緒に食事をしていた場面が描かれています。当時ユダヤ教で大きな勢力のあったパリサイ派の律法学者はイエスの弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言います。それを聞いたイエスは言われました。「医者を必要とされるのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語ったとあります。 死に至る病は絶望であり、絶望は罪であると語ったのはキルケゴールです。 聖書にも罪の結果は死である(ローマの信徒への手紙6章23節など)とあります。このことから考えれば、「いやす主」とは病や苦しみを治すというだけではなく、死にたる病、絶望をも治す、絶望を希望にも変える主であるということ、さらに、死さえも生に変える主であることを本日の聖書の箇所2つから受け止めることができます。 私たちは病んでいるとするとその薬とはなんでしょうか?それは神の言葉でしょう。人はパンのみで生きるにあらず、神から出る一つ一つの言葉で生きるとあります。 このような神様が私たちと共にいてくださることに感謝します! 主の声に聞き従っていきましょう。主の声は信仰者に与えられていると同時に信仰者ではない人には良心が証しすると聖書(ローマ信徒への手紙2章15節)に示されています。 皆様の祝福をお祈りします。