聖書 出エジプト記15章20~21節
   ルカによる福音書18章15節~17節
説教 平和の共同体の心得「主に向かって奏で、踊り、歌う」

信仰の歩みは、山あり谷ありです。そう私は指導牧師に言われました。はじめは信仰を決断してとても喜びに満ち、希望と感謝の日々でしたが、25年以上すぎますと、惰性でやっているようでして、新しい喜びに満たされない日々、ついていない日々、ダメな自分で打ちひしがれて、気持ちが萎えてしまう自分に気づかされてしまいます。更年期ということもありましょう。自分のやっている仕事、奉仕はどうも大人げない、大したことない、価値なしと落ち込んでしまうのです。なんか、言語聴覚士として仕事をさせていただいていますが、歌を歌ったり、話をしたり、ゲームをしたりして、遊んでいるようで、これでプロではなんか申し訳ないと思ったりしちゃうんですね。また、たとえば、自分がもし、結婚して妻に、私の仕事はこうです、と胸を張って言えるか、と問われると、どうも自信がありません。子供ができて、自分のやっている仕事はこうだ、と言って、どうだ、私の仕事の後を継げ!とは言えない、そういう気分でもあります。これが信仰をしてきた結論なのかと、情けなくなる次第です。

本日の出エジプトの箇所は「海の歌」と題している箇所です。イスラエルの民はファラオの軍勢に追われます。葦の海に差し掛かった時、イスラエルの民は、葦の海が二つに分かれたところを渡りきりましたが、ファラオの軍隊は海の底に沈められました。さらにこれから進み行くなか、敵対者として存在する、ぺリシテ、エドム、モアブ、カナン人らの力から神が守ってくださった(なぜか過去形)ということが記されています。

神の力が敵対する力から守ってくれたというのです。神の力は、戦車や騎兵など軍隊を海の中へ沈めたように、軍備に勝る力です。それをモーセたちは、「主は私の力、私の歌」と表現しています。主は自分の力とはなるが、軍備や武力というものではなく、歌というものである、と語っているのです。本日の聖書の箇所からは、私たち信仰者は軍隊に対し、主への歌でその軍の力を凌駕できるとでも言いたげです!これは驚きです。しかし、よく考えてみますと、出エジプトしてきたイスラエルの民は逃げてきたんですよね。エジプトを自分たちの力では自分たちの暮らしやすいような国、共同体にはできないと思ってか、逃げてきたんです。彼らのやったことは、世界最大の文明からの逃避です。ただ、向かったところ、神様だった、ということでしょう。実際にはカナンの地へ向かいますが、やったことは、十戒や律法を守ろうとした、ことです。信仰共同体の形成を行っていったのではないでしょうか。神へ向かい、奏で、踊り、、歌う共同体を形成していったのではないでしょうか。これは教会形成の柱でもあるようです。

この共同体は、人が作った価値、素晴らしいと思われる華やかな世界、繁栄している世界、楽しく、快適に見え、幸せそうに見える世界、財力や権力、支配力に守られているような世界、快楽に満たされるような世界、そういう世界の価値にとは、違う価値へと私たちを導いていきます。
違うといいますか、私の乏しい経験から言わせていただきますなら、超える価値、包含された価値へと、私を導いてくれるような気がします。
それが、主に向かって、奏で、踊り、歌うことです。これは、賛美歌を歌うことでもありましょうが、祈り、という行為でもあると思います。

実際、モーセの姉のミリアムたちが、太鼓を叩き、踊り、歌ったと書かれています。その歌の歌詞が、「主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。」です。

私たちに出来る事って神様がやってくださった業に気づき、感謝することだけなのかもしれません。本日の新約聖書ルカによる福音書には「乳飲み子のような者が天国に入れる、乳飲み子のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とあります。無力な乳飲み子はただ恵を受けるだけしかできません。そう、わたしたちの暮らしは神様の業に気づいて、ただ、それを受け入れるだけでよいのでしょう。私たちは。あれもできない、これもできないと嘆きすぎではないでしょうか?乳飲み子が生きるために与えられている、恵みの中に私たちは生かされていることに、感謝しているでしょうか?出エジプトに描かれている恵みは、乳飲み子か生きていけるという恵みと同じことではないでしょうか?そういう神がいてくださることに気付いたなら、私たちも感謝の祈りを捧げる信仰者として、何も恥じることがないでしょう。
妻や子供や周囲に褒められるために仕事をしているわけではありません。歌を歌う相手、話をする相手、ゲームをする相手が少しでも喜んでもらえるなら、生きる助けになってくれるなら、それでいいじゃないですか、そのために、私たちが生きていると思ってもいいじゃないですか。日々の暮らしの中には、そうは思っても実現できない問題はたくさんあります。成果が上がるかどうかはこの世の評価です。しかし、私たちの評価は、主に向かって、奏で、踊り、歌うことではないでしょうか?主に向かって祈りを捧げているかどうか、ということではないのでしょうか?