出エジプト記14章1節~31節(朗読15節~18節)
使徒言行録1章6~11節
讃美歌21 346
説教 平和の共同体の心得「軍の無力さ」

今年も物騒な話から始めなければいけない悲しさを覚えます。
シャルリー エブト週刊新聞社襲撃事件で12名の犠牲者を出したということです。テロであって宗教やイスラム教とは無関係と言われていますが、それはイスラム教への復讐を避けるための嘘でして、明らかにあのテロは宗教によるテロです。犯人は、イスラムの礼拝時間を守り、特殊部隊が侵入したときは礼拝の時間だったらしく、犯人はお祈りの姿勢をとっていたということですから。
この一連の事件の悲しみは、みんな大真面目だということです。シャルリーエブド社は風刺で有名でイスラム教やモハメッドの風刺のほかに、キリスト教をはじめ権力者、日本の切腹なども風刺の対象として一生懸命やっていたと思われます。なんども発刊停止なった経緯もあり、外部からは以前からその風刺の強烈さに賛否両論のあるような思想を表現する会社であって、その風刺を表現することに命をかけていたといってもいいのかもしれません。今回のテロ事件の前に、シャルリー・エブト社はモハメッドのイラストに「テロはいまだパリにはない」というような文言をいれたそうです。その後のテロであったようです。テロの犯人を捜すため、フランスは8万のもの警官や特殊部隊をだし、犯人を追いつめ殺害したとあります、人質となった方々何人かも犠牲になったようでした。これは悲しいことなんです。誰も自分が悪いことをしていると思っている人はいないんです。人がなくなってしまって残念だけど、仕方ないんです。相手が悪いんです。自分は正しい正義の道を歩んだのだ、という強い思い、洗脳されたていると思います。信仰者としては十戒を守る、ことが重要であるはずです。十戒の汝殺すなかれ、これは絶対に犯してはならない律法です。キリスト教でもユダヤ教でもイスラム教でも、たとえ過激派と言われようと、十戒は私たちが従う法では絶対です。これが許される法はないし、解釈によって殺人や自殺が罪でないとは言えない。罪は罪です。我々の力をもって十戒は超えられないし、違反は正当化できない、われわれは十戒の前にはただ罪びとであることを認めざるを得ないものです。

最近、国防軍を主張する総理大臣が経済成長を謳って、株価を上げ、円安に拍車をかけています。軍隊と経済とは相関関係にあります。国家や組織は経済力と武力によって善し悪しが決まると言う事でしょうか?日本の政治がそのような価値観の元に明治以来の富国強兵路線へ舵取りをしようとしているように思います。1945年以降は富国平和であって、かつて、どこの国でも実現しなかったようなある意味、理想的な世界を日本は創り上げたと思っています。平和ボケ、草食系男性ということばに象徴されるくらい、ある意味いい世の中になっているのかもしれません。

さて、本日の聖書の出エジプトの箇所は、『十戒』の映画にもありました、海が2つに別れ道ができたという奇跡的場面での出来事です。ナイル川河口の東にある「葦の海」が進み行くイスラエルの民の右と左に壁のようになり、しかも、その進み行く道は乾いていて、歩きやすかったのです。その後を追うエジプトの軍隊は、ファラオを頭にえり抜きの戦車600を始め、エジプトの戦車すべてを動員、騎兵、歩兵も相当数。しかし、軍隊は神の御旨に従って歩む、イスラエルの民の行く手を妨害するには、無力なものとして、示されています。イスラエルの民が「葦の海」を渡り終えたとき、葦の海の水が元に戻り、イスラエルの民を捕らえようとしたエジプトの全軍は水の中に飲まれてしいました。エジプト軍の力と経済力は当時世界一。その力をもっても、イスラエルの民がエジプト脱出するのを防げませんでした。聖書は「神がイスラエルの民を救った」と記しています。出エジプトについて私なりに考えてみますと、イスラエルの民は脱国者ではなかったのかと思います。実際は北朝鮮の人たちが北朝鮮から脱国するように少数の人たちが自然災害のどさくさに紛れエジプトから逃げてきたんじゃないかと思います。エジプトからカナンの地までは約300キロ一日10キロあるけば1か月で到着します。みんなが一斉に脱出したように書かれていますが、実際には小集団が長い年月をかけてエジプトからカナンの地に逃げてきたんではないかと思います。これは重要なことです。主の指示はつまり「逃げろ」なんです。軍隊や権力をもっているものに支配されているとき、もし、その支配がいやなら、危険と思ったら、逃げろ、なんです。難民になって生きろ、という指示です。だから、私は、出エジプトは、難民物語として読みます。そして、カナンの地は、難民を受け入れてくれる地だったということです。これが神の作戦です。エジプト人もイスラエル人も汝殺すなかれを守れる作戦でしょう。これが、エジプトを理想国家へと変革しようとし、革命やクーデターを人間自らが起こした時には、犠牲者がでる。汝殺すなかれを守るには、武器を持っている人からひたすら逃げる、こういうことを神はモーセに命じ、モーセは民に命じていったのでしょう。出エジプトの知恵は虐待されるものには刃向うな、逃げて、自分の信仰で暮らせる場所を見つけろ、神は虐待する彼らをなんとかしてくれるだろう、こういうメッセージを私は受けます。逃げていいんだ、いいです。虐待からは逃げましょう。これはドメスティックバイオレンスの場合も同じですよ。息子や娘、親だと思って我慢する必要はないんです。暴力からは逃げていいんです。それが鉄則らしいです。

本日の新約聖書の使徒言行録には「聖霊」について書かれています。復活したイエスは弟子達に「聖霊」を受けるように待ちなさい、「聖霊」を受けると力が出て、世界中でのイエスキリストの証人になる、と言われました。「聖霊」を求めるようにイエスが弟子達に話していたことは、新約聖書のあちこちに見られることです。

「聖霊」とは何か。これが私たちが求めていくべきテーマなのでしょう。それは、軍隊ではない、能力でもない、経済力でもない。相互理解、平和、慈悲とか、抑圧からの解放、他者への思いやり、罪の赦し・・・など、命の破壊へと向かうのではなく、どんな命も慈しむことへ向かうこと、それが聖霊を受けることでありましょう。

とかく、人間は力が強く、能力があり、経済力があるようになりたいと思い、それに向かって努力するものです。しかし、神はそういうことを目的に生きろ、とは言わないのです。ならば、何を求めてわたしたちは生きていけばよいのでしょう。イエスは「聖霊」を求めよ、と言います。「聖霊」つまり命を慈しむことを求める旅が出エジプトでもあり、私たちの暮らしの目的なのかもしれません。イスラム過激派のひともテロではなく、神に解決する道を教えてもらえるとよかったんでしょう。フランス警察、特殊部隊も、ここを考えなくてはならなかったんでしょうね。やはり、旧約聖書の勉強をみんなでする必要を痛烈に感じます。神よ憐れみたまえ。願わくば人の命を奪う行為が間違っている行為で、どんな命をも慈しむ命であることをすべての人に知らしめてください。われらの唇やペンによる表現、暮らしすべてを通して、アーメン

お祈りします。みなさまの祝福をお祈りします。