出エジプト記12章43節~12章51節
マルコによる福音書14章12~26節
平和の共同体の心得「過越しの儀式から思うこと」

出エジプト記はイスラエルの民がエジプトの国から解放されていくことが、書かれている書物です。エジプトの重労働を課せられる奴隷の状態から、解放してほしいというイスラエルの民の うめき を見聞きした 神が、イスラエルの民を、モーセに民の導き役を託して、救い出すということが、書かれています。(出エジプト記3:7-8 主は言われた。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は下っていき、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々とした素晴らしい土地、父と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人の住むところへ彼らを導き登る」)。そうして、エジプトから、カナンの地、今のイスラエル周辺のカナンの地へ向けて脱出し、40年の荒野の旅が描かれています。

本日の聖書の箇所は過越し祭の規定が書かれているところです。イスラエルの民がエジプトから出るときに、エジプトの王様のファラオがなかなか許してくれないので、神様がエジプト側に10の災いを与えたことが示されていています。ナイル川が血になる災い、蛙の大発生、ぶよの大発生、アブの大発生、疫病の災い、できものの災い、雹の災い、いなごの災い、暗闇の災い、そして、最後に初子の死の災い、これは、人も家畜もエジプト中の長子が死んでしまうという災いがエジプト中を襲いました。しかし、子羊の血を家の入り口の2本の柱と鴨居に塗った場合は、初子の災いは、過ぎこされていきました。神社の鳥居みたいに塗っていたのでしょう。その出来事を祝う、過越し祭、割礼を受けた者だけが、犠牲をいただけることになっていました。つまり、ユダヤ教徒だけが過越しの犠牲の肉をいただける規定があったとされています。

さて、本日の聖書の箇所では、イエスとその弟子たちが、過越しの祭をする場面がかかれています。ここから、イエスと弟子たちはユダヤ教徒であったことが分かります。イエスは自分の宗教のユダヤ教の神の教えを真剣に守っていった人だったことが分かります。イエスを裏切ると分かっていいるユダがここにいるのは、ユダも割礼を受けたユダヤ人だったからでしょう。
さて、このユダヤ教の儀式のときに、イエスは弟子達に主の晩餐について語ります。レオナルドダビンチの最後の晩餐にもある場面が今日の新約聖書の場面です。ここで、イエスは、パンを自分の体にたとえ、杯のたぶんぶどう酒を自分の血にたとえ、語ります。「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」ここの「多くの人」というのは、セム語的表現で「すべての人」いう
意味であるといいます。イエスキリストは十字架に付き、犠牲になったわけですが、それを、ここでは、「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうから作ったものを飲む事はけっしてあるまい」と言っています。

イエスキリストの犠牲はすべての人の犠牲。すべての人の救い。本日の旧約聖書と抱き合わせて考えると、すべての人の災いからの救いを意味していると捉えることができます。なぜなら、本日の旧約聖書のエジプトの王が頑なにイスラエルの民を束縛しようとするのは、神がそういうふうに頑なにしたと書いているからです。また、10のエジプトに神が与えたとする災いは、今でも自然現象で考えられる災害や疫病であると説明できるそうです。ナイル川が血になるというのは赤潮だったとかですね。そうすると、エジプトへの災いは神がエジプトの人たちが頑なだったから与えた災いとして読むではなく、差別や抑圧、自然災害や疫病などのありとあらゆる災いからイスラエルの民が救い出されたこと、ありとあらゆる災いから救い出されたものは、だれでも、イエスラエルの民(神の民)だということを本日の旧約聖書はいいたかったのではないでしょうか。そして、生き残った人々、つまり、生きている人々は、その神と共に生きていける希望をもって、荒野の40年を歩み、ついにカナンの地に入って行ったのでしょう。

新約聖書のイエスもそういうことをユダヤ教の一人として言い伝えて言ったと思います。ユダヤ教の神とは、ユダヤ人のためだけの髪ではない、すべての人のための神だ。もっというなら、抑圧されたり、いじめられたり、病んでいたり、苦しんでいる人を解放し、癒し、苦しみを取り去り、自然災害を含む、すべての災いから、救い出す神なのだということを言い、ユダヤ教の指導者達の過ちを指摘していった人でもあったのでしょう。その本当の神について語ったためイエスは殺されたのでした。

わたし自身信仰にはるときは、私個人にふりかかってくる災いから、逃れられたという、思いがありました。それが、たまたま、イエス・キリストであったと思っています。

過越し祭の儀式を思うとき、今は聖餐式に引き継がれていますが、
災いからイスラエルの民を救った神がおること、そして、イエスの時代に、救いはすべての人のためであったと、真理・真実を明確にしてくれたことを思い感謝の気持ちでいっぱいです。イエスは十字架にかかり、死にましたが、その死の災いにも復活という神の業で勝利したと聖書はいいます。

私たちには、災いから救い出す神がついている。そう思って、これからの暮らしを歩んでいきましょう。災い、恐れることなかれ、です。
お祈りします。