申命記9章1節から7節
 ローマの信徒への手紙3章9節から22節  

 題:私は正しい人ではありません

「あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、『私が正しいから、主が私にこの地を得させて下さったのだ。』と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することができるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。」(申命記9章4節)
出エジプトする中でイスラエルはかたくなな民とされています。言うことを聞かないんですね。自分勝手。神様から与えられる土地は、イスラエルの民が正しいからではないということを再三言われています。正しくないあなたたちに神は恵みを与えるんだというのです。もちろん原住民も追い払うだけでしょう。本日の申命記には原住民のアナク人を神は滅ぼせ、と申していますが、次の文では追い払う、というふうに書かれ、「滅ぼす」という言葉が使われておりません。あまりにも強敵に見えたので、自分らが滅ぼされると思ったのかもしれませんが、大丈夫だったのでしょう。本当は共存していったんだと思います。
内村鑑三は、本当の悪党は、自分が善人だと思って疑わない人をいうと言っています。善人は自分を善人とは思えないそうです。
聖書全体が人間を善人とは言っていません。今日の申命記もそうですが、旧約聖書では十戒が与えられているような人間だったと考えると人いもんです。神は適当に作っちゃう、偶像礼拝しちゃう、神の名をみだらに唱える、両親を敬わない、殺す、姦淫する、盗む、嘘つくなど人間とはとそういう罪びとであるということでもありましょう。今日のローマ信徒への手紙でも正しいものは一人もいないと言い切ります。
これは酷いです。
「正しいものはいない。一人もいない。
神を探し求めるものもいない。皆迷い、誰もかれも役に立たないものとなった。
善を行う者はいない。一人もいない。
彼らの喉は開いた墓のようになり、彼等は舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
口は呪いと苦みで満ち、足は血を流すのに速く、
その道には破壊と悲惨がある。彼等は平和の道を知らない。
彼等の目には神への恐れはない。」
(イザヤ59章よりパウロが引用)

これを見るとどこかの過激派のことを思いますが、自分にも当てはまるんですよね。人に否定的なことを言われるとムカッと来て、「あんな奴、死んでしまえ」って思ったりするんです。わたしでも。怖いですね。でも、聖書にこうも人間の本性みたいなことを書いてもらうと何かすっきりして、そういうふうにならないように注意しようと思いますね。聖書には、人間の力では正しい人にはなれず、罪の赦しという神の業(イエスの十字架)を信じる以外に、正しい人にはなれない、という結論にパウロは至ったようです。

それだけではなく、新約聖書(ルカによる福音書18章9節~14節)には、義とされる人は、以下のような悔い改めた徴税人が譬えで紹介されています。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

自分は正しくないと認め、主からの憐れみを待つ。正しい生き方とは、こういうものなのかもしれません。

みなさまの祝福を祈ります。