聖書 申命記31章1節~8節
   マルコによる福音書14章3節~9節
説教 平和の共同体の心得
   「引き継ぎ」

私たちは、引き継ぐことを考え、悩んでいます。後継者がいないと嘆く、農業や漁業、職人、会社経営者、家など。寺や教会も後継者がなく、どうしたらよいかと悩んでいるのが、現状ではないのでしょうか?
本日の聖書ではこの後継者についてどういう考え方なのかを知ることが出来ます。モーセは120歳になり、心身共に衰えがあったのか、自ら「もはや自分の務めを果たすことが出来ない」と語り、「主が語られた通り、ヨシュアが後継者となる」というように話します。神が一方的に選ぶということです。

この後継者が何を引き継いだのかを考えてみますと、抑圧からの解放という「自由」ではなかったかと思います。申命記はエジプトの重労働を課したり、虐待したり、搾取したりする差別的支配から、イスラエルの民を「乳と蜜の流れるカナンの地」に導く事案が示されていますが、これは、人々の生を抑圧し、破壊する個々人の心の状況、環境から、自由に生きることのできる個々人の心の状況、環境への変化を意味し、これが、神の意志ではないかと思われます。このような神の意志は、時代を超え、場を超え、イデオロギーや、宗教を超え、適応されうること、人々が生きるに必要なことと私は捉えています。
さらに、興味深いのは本日の新約聖書、マルコによる福音書14章3節から9節。全文を紹介させていただきます。

イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席についていたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン(今の日本では300万円くらい)に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するがままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が述べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう。

この箇所を読むと、したいときに良いことをする、ということが神の意志、ということになります。良いことだからしなければならない、これでは、人を抑圧もし、苦しめもするでしょう。したいときに良いことをする、なら、自由です。

後世に引き継ぐことは、「したいときに良いことをする自由」、ということになりましょうか。そして、その方法は「したいときに良いことをすること」なのでしょう。

皆さんの祝福を祈ります。