申命記18章9~22節 マタイによる福音書4章1~4節

説教 平和の共同体の心得
   「なぜ、礼拝が必要か」

教会にいらして礼拝を捧げていますが、私たちが礼拝するのはどうしてか、ということを今日は考えていきたいと思います。
本日の申命記18章は、異教の習慣への警告として、「厭うべき習慣を見習ってはいけない」といいます。具体的には「自分の息子、娘に日の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術者、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てるものがあってはならない」とあります。ここは「厭うべき習慣」に従うことがいけないのであって、「厭うべき習慣」というのは自分の息子娘に火の中を通らせるような習慣、人を傷つけたり、殺害したりするような習慣であると思います。占いや霊媒すべてが悪いのではないと思います。「主と共にあって
全き者でなければいけない」と言われいます。「全き者」とは、どういう人かと考えますと、死や破壊に向かっていかない者、生へ向かう者、生き生きしている者、すっきり爽快爽やかに生きる者のように私は思います。
そして、15節から、神の言葉取り次ぐ預言者を立てることを神はモーセに語ります。預言者の言葉つまり神の言葉に従わなくてはならないと語られます。「このことはすべてあなたがホレブで、集会の日に『2度とわたしの声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬようなことがないようにしてください』とあなたの神、主に求めたことによる」と書かれています。これは、申命記5章23-31にあるのですが、死ぬようなことがないようにするため、また、本人たちも子孫たちも幸いを得るようになるということが書かれています。
新約聖書の本日の箇所には、悪魔に誘惑を受けてイエスが語る言葉です。「人は9パンのみで生きるのではない。神から出る全ての(言葉=ことがらで生きる。と語っています。
生、命これは神が慈しみ、養うものであり、神そのものであるかもしれません。「私は命であり、道であり、真理である」
礼拝とは、神の言葉を取り次ぐ行為そのものであり、また、神そのものを取り次ぐ場でもあると思います。礼拝はサービスという意味のように、医療、福祉、教育のように、捧げる行為でもあると思います。イエスの十字架は、捧げものとしては最大なものでしょう。神の命を捧げたのですから。神の命は復活して滅びることがなかったようですから。そういうことから考えると、礼拝とは十戒を含む、神の指示に従い、神と人に仕える行為でもあると思います。それは、人が死や破壊行為へ向かうためではなく、人を生かすこと、まっとうに生きることや、幸いを子々孫々得ることに、繋がるようにすることすべてを礼拝と言うのだと思います。生きること、よりよく生きることには、神の言葉を聞いたり、神の行為にかかわる体験が必要であり、それを言葉で取りついたり、行為で取り次いだりするのが、預言者の役割であり、今日の教会・伝道所・集会での礼拝の牧師の役割であると思っています。
願わくは、神の言葉や行為に触れ、それぞれの人生を生き生きとさせていくことができますように、決して、私たち人間が犯すような、破壊や死や殺人(イエスの十字架は最たるもの)へと向かっていきませんように祈るものです。