聖書 申命記16章21節~17章7節 旧約307
      マタイによる福音書13章24~30節 

正しい礼拝とは?

本日、申命記には「正しい礼拝」という見出しで「アシュラ像や木の柱も据えてはならない。神が憎まれる石柱を立ててはならない」 とし、さらに、捧げものについては、「いかなる欠陥のある傷のある牛や羊を捧げてはいけない。それは、あなたの神、主がいとわれることである」とあります。
それから、主の悪とされることを行って、他の神々に仕え、月や太陽、天の万象など、神が命じていないものにひれ伏した場合、死刑に処されることが書かれています、
そして、最後に「あなたらちはこうして、あなたたちの中から悪を取り除かなければならない」ということで結ばれています。

とても厳しいことのように思えますが、これを書いた時代は、バビロン捕囚前後であって、イスラエル民が滅亡する危機的状況の中で書かれたとすれば、すごい、信仰だと思います。処刑するというのは神の悪しからぬとすることを行った場合の話ですから、神の御心が赦しにある場合、処刑は難しくなってくることは考えられます。そこで、いろいろ手続きがあったようです。旧約聖書の人間の始まりはアダムとイブの神の言葉を聞かないと裏切りです。その子供カインとアベルは兄弟殺しです。神は彼らを殺したかというとそうはしなかった。生きる道を与えたのです。赦しが神の本質にあるのは旧約聖書にあると思います。

そのようなことから考えますと、イエスの本日のことばはよく納得できます。いいものも悪いものも一緒に生きていけ、そして、最後の審判の時に、決着がつく。ということです。私たちは地上では裁き合っては共倒れになることは予想できます。お互い良いものも悪いものも共存していけ。という教え。これは非常に問題です。ヒットラーやISのような悪者とも一緒に生きて行けというのか?イエスの答えは「イエス」こうなると世の中黙っていません。そんなことしたら、世の中滅んでしまう。混乱状態になってしまいます。十戒が神の言葉であるなら、死刑は罪でしょう。神の言葉は私たちの暮らしに入り込み、問題提起をなしている。そのように思います。そのことによって私たちは暮らしに躓く。進めない状態にとどまっているのです。しかし、世の中を見れは、それは、実に冷めた目で世を評価しているように思います。神の言葉は我々への投げかけ、正しい礼拝とは何か?と本日は私たちに投げかけられました。偶像礼拝を避け、捧げものを傷のないものとし、他宗教を切り捨てる礼拝が正しいのでしょうか?
赦しを基本としヒットラーであれISであれ、一緒に礼拝をするのが正しい礼拝なのでしょうか?イエスによって正しい礼拝とは何か、問われ、われわれは困惑している状態にあるのではないでしょうか?イエスは我々に困惑したり、迷ったり、結論を出せない道を歩むことでも大丈夫なんだということを示してくれているように思います。
みなさんの祝福を祈ります。