申命記14章2節~14章29節、(朗読:申命記14章23節)、   マタイによる福音書5章1~2節  
(2015年2月15日)
平和の共同体の心得「神をそそれることを食として経験し、学ぶこと」

申命記が編集された時代は、イスラエルの民が滅亡するかもしれない危機的状況にあったといわれています。その反省として編集されたようです。食べることができる清い動物、食べることができない汚れた動物に区別したり、畑の収穫物の十分の一の規定が書かれています。献金に十分の一を捧げるということですが、ここでは、違うようです。献金の使い道について示されているようにも思います。ここでは人々が〝食べ、主を畏れることを学ぶ”ためであるということを語っているようです。ということを主の御前で、すなわち、主がその名を置くために選ばれる場所で、会食をすること、それは神を畏れることを学ぶためであるということが、書かれています。さらに申命記14章28節には次のようなことも書かれています。「3年目毎に、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えて置き、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。」申命記編集者が民族滅亡の危機に反省したこと、これは、食べ物の食べ方や神への捧げ方、収穫の十分の一の取り分の用い方でした。それらを神の前での会食に用い、神を畏れることを学ぶべきであった、と申命記編集者は反省したように私には受け止められます。これは何という、驚きでしょうか?申命記編集者が自ら本当に書いたとしたなら、すごい信仰だと思うのです。民俗滅亡、己の命が今費えようとしているとき、私だったら、こうできるだろうか?と思います。ああ、やっぱり、神はいないんだ、と絶望するんじゃないかと思います。この命が絶たれるときに当たって、神を畏れることを学ばねばならない、とこういうことをいうとは、神は救ってくださるという、信仰が強く表れているところと思います。私は感動します。

マタイ福音書にはイエスの有名な山上の垂訓です。イエスはよく教えを述べていました。たとえばなしもたくさんあります。十字架につけられることがわかっていても、最後の晩餐の時まで、イエスは学びの食事会を催されました。やはり、イエスも死ぬ直前までで弟子に神から、食と学びを勧めています。神を畏れることを学ぶ、人間への神からの課題は、神を畏れることを食として体験し、学ぶことのように思います。
神を畏れることを食として体験し、学ぶこと。グルメ志向の現代社会、欲望肯定の現代社会、殺害を平気で行う現代社会には、神を畏れることを食として経験すること、そして、学ぶことは、必要な事柄のように思います。

みなさまの祝福を祈ります。