聖書 申命記13章2節~14章1節 旧約p302 (朗読:申命記13章19節) マタイによる福音書2章1~12節 新約p2 (2015年2月7日) 説教 平和の共同体の心得 「主が正しいと見なされることを行う」 本日の申命記には、『「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘う預言者や夢占いをする者は処刑されなければならない。』(2~6節)とか『同じ母の子である兄弟、息子、娘、愛する妻、あるいは親友に、「あなたも先祖も知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」とひそかに誘われても、その神々が近隣諸国の神々であっても、地の果てから果てに至る遠い神々であっても、誘惑する者に同調して耳を貸したり、憐れみの目を注いで同情したり、かばったりしてはならない。このような者は必ず殺さねばならない。」とあります。ここで殺人命令を神が出す、といことになるのでしょうか?私はこれは違うと思います。ここの趣旨は6節後半にありますように悪を取り除くことだと思います。殺してまで、そういう覚悟をもってという意味でありましょう。誘惑するとは死への誘い、破壊行動への誘いでありますから否定する形ですと滅ぼす者を滅ぼすということになってしまい、悪を亡くすには、殺人という悪をもってなすことになり、矛盾が生じてしまいます。その矛盾がここに示されています。新約聖書の本日の箇所は占星術の学者が救い主イエスを一番初めの方に見つけて礼拝する箇所です。したがって、ここでは占いをする者だけでは死に当たらない、礼拝することができ、しかも、神からのお告げもあるということが示されています。 イエスは律法を、ただ大事にし合え、という掟に変えました。また、大事にしない者は滅ぼせ、ということにはなっていません。そして、裁きは大事にし合わないときに下されているように思われます。あえて殺害する必要もなくなりました。大事にし合う。このことこそ世を平和に導く、秘儀です。大事にし合う関係を築けたとき、私たちは天国にいるのでしょう。麗しき天国。ここに入れる希望はまさに大事にし合う、関係によって生まれるのでしょう! 申命記14章2節~14章29節、(朗読:申命記14章23節)、 マタイによる福音書5章1~2節 (2015年2月15日) 平和の共同体の心得「神をそそれることを食として経験し、学ぶこと」 申命記が編集された時代は、イスラエルの民が滅亡するかもしれない危機的状況にあったといわれています。その反省として編集されたようです。食べることができる清い動物、食べることができない汚れた動物に区別したり、畑の収穫物の十分の一の規定が書かれています。献金に十分の一を捧げるということですが、ここでは、違うようです。献金の使い道について示されているようにも思います。ここでは人々が〝食べ、主を畏れることを学ぶ”ためであるということを語っているようです。ということを主の御前で、すなわち、主がその名を置くために選ばれる場所で、会食をすること、それは神を畏れることを学ぶためであるということが、書かれています。さらに申命記14章28節には次のようなことも書かれています。「3年目毎に、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えて置き、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。」申命記編集者が民族滅亡の危機に反省したこと、これは、食べ物の食べ方や神への捧げ方、収穫の十分の一の取り分の用い方でした。それらを神の前での会食に用い、神を畏れることを学ぶべきであった、と申命記編集者は反省したように私には受け止められます。これは何という、驚きでしょうか?申命記編集者が自ら本当に書いたとしたなら、すごい信仰だと思うのです。民俗滅亡、己の命が今費えようとしているとき、私だったら、こうできるだろうか?と思います。ああ、やっぱり、神はいないんだ、と絶望するんじゃないかと思います。この命が絶たれるときに当たって、神を畏れることを学ばねばならない、とこういうことをいうとは、神は救ってくださるという、信仰が強く表れているところと思います。私は感動します。 マタイ福音書にはイエスの有名な山上の垂訓です。イエスはよく教えを述べていました。たとえばなしもたくさんあります。十字架につけられることがわかっていても、最後の晩餐の時まで、イエスは学びの食事会を催されました。やはり、イエスも死ぬ直前までで弟子に神から、食と学びを勧めています。神を畏れることを学ぶ、人間への神からの課題は、神を畏れることを食として体験し、学ぶことのように思います。 神を畏れることを食として体験し、学ぶこと。グルメ志向の現代社会、欲望肯定の現代社会、殺害を平気で行う現代社会には、神を畏れることを食として経験すること、そして、学ぶことは、必要な事柄のように思います。 みなさまの祝福を祈ります。 申命記15章1節~11節、マタイによる福音書18章21~35節 (2015年2月22日礼拝) 平和の共同体の心得「赦しとは?」 神は一方的な赦しを勧めています。本日の申命記では貸したお金は7年ごとに免除されることが書かれています。マタイによる福音書にはイエスのことばとして「7を70倍するまで赦しなさい」というイエスのことばがありました。 一方、マタイに福音書には赦さない者は裁きを受けるという結果にもなりうることが示されています。現実生活で「赦さなければいけない」という決まりができると、赦さない人は裁かれる結果になる場合があります。マタイの時代ではどうもそういう風潮がったようです。赦すことがみ国へのいきつく条件のごとくに捉えられていたようです。しかし、これは神からのメッセージではなように思います。神からのメッセージは「赦しなさい」ということでしょう。そして、人は人の罪を赦せないからこそ、「赦すべきではないのか」というイエスのメッセージが残るような気がしています。赦さない人を断罪していいのか、迷うところです。 このように、「赦し」とは神からの私たちへのメッセージであって、道徳や決りにするべきことではないように思います。 この神の問いかけを聞くか、聞かないか、は、われわれの状況、出来事の経緯、時代の権力者の思想などに左右されることであると思います。 願わくは、赦せるように、神の言葉に従いたいものです。 申命記16章1節~17節 マルコによる福音書14章12~21節 (2015年3月8日) 説教 平和の共同体の心得 「お祭りをする」 聖書には面白いことがたくさん書いています。読んでいてあきません。深く読めば読むほど勉強すればするほど惹きつけられていきます。本日の箇所は神様が私たちにお祭りをしなさいというところです。過ぎ越祭、7週祭、仮庵祭の3つについて祝いなさいと神様が語っています。過ぎ越し祭はイスエスラエルの民がエジプトから脱出していくとき、神様がエジプト中の初子を打った時、門の鴨居に子羊の血を塗った家だけ災いから逃れたという出来事です。この神の救いを記念するために行うのが過ぎ越し祭で、酵母の入れないパンを食べます。7週祭はその後7週後に祝った小麦の刈り入れのお祭りで後代ではモーセがシナイ山で十戒を与えられたことの記念祭となり、キリスト教では五旬祭となりました。仮庵祭はエジプトから出て荒野に天幕という仮住まいを作って暮らしてきたことを記念するお祭りです。こういうお祭りを神様が行うように指示します。新約のマルコによる福音書でもイエスが弟子たちといっしょに除酵祭の食事をしようといっているところです。除酵祭というのは過ぎ越し祭に引き続き7日間酵母を入れないパンを食べる祭日ですが、イエスは次の日十字架にかかってしまう危機的状況の中での出来事です。 このように神様は私たちに祭をするように語ります。もちろんその祭りは命が救われたり、購われたりすることを覚えるためのお祭りです。平和な共同体にはぴったりのおすすめのような気がします。 聖書 申命記16章21節~17章7節 旧約307 マタイによる福音書13章24~30節 正しい礼拝とは? 本日、申命記には「正しい礼拝」という見出しで「アシュラ像や木の柱も据えてはならない。神が憎まれる石柱を立ててはならない」 とし、さらに、捧げものについては、「いかなる欠陥のある傷のある牛や羊を捧げてはいけない。それは、あなたの神、主がいとわれることである」とあります。 それから、主の悪とされることを行って、他の神々に仕え、月や太陽、天の万象など、神が命じていないものにひれ伏した場合、死刑に処されることが書かれています、 そして、最後に「あなたらちはこうして、あなたたちの中から悪を取り除かなければならない」ということで結ばれています。 とても厳しいことのように思えますが、これを書いた時代は、バビロン捕囚前後であって、イスラエル民が滅亡する危機的状況の中で書かれたとすれば、すごい、信仰だと思います。処刑するというのは神の悪しからぬとすることを行った場合の話ですから、神の御心が赦しにある場合、処刑は難しくなってくることは考えられます。そこで、いろいろ手続きがあったようです。旧約聖書の人間の始まりはアダムとイブの神の言葉を聞かないと裏切りです。その子供カインとアベルは兄弟殺しです。神は彼らを殺したかというとそうはしなかった。生きる道を与えたのです。赦しが神の本質にあるのは旧約聖書にあると思います。 そのようなことから考えますと、イエスの本日のことばはよく納得できます。いいものも悪いものも一緒に生きていけ、そして、最後の審判の時に、決着がつく。ということです。私たちは地上では裁き合っては共倒れになることは予想できます。お互い良いものも悪いものも共存していけ。という教え。これは非常に問題です。ヒットラーやISのような悪者とも一緒に生きて行けというのか?イエスの答えは「イエス」こうなると世の中黙っていません。そんなことしたら、世の中滅んでしまう。混乱状態になってしまいます。十戒が神の言葉であるなら、死刑は罪でしょう。神の言葉は私たちの暮らしに入り込み、問題提起をなしている。そのように思います。そのことによって私たちは暮らしに躓く。進めない状態にとどまっているのです。しかし、世の中を見れは、それは、実に冷めた目で世を評価しているように思います。神の言葉は我々への投げかけ、正しい礼拝とは何か?と本日は私たちに投げかけられました。偶像礼拝を避け、捧げものを傷のないものとし、他宗教を切り捨てる礼拝が正しいのでしょうか? 赦しを基本としヒットラーであれISであれ、一緒に礼拝をするのが正しい礼拝なのでしょうか?イエスによって正しい礼拝とは何か、問われ、われわれは困惑している状態にあるのではないでしょうか?イエスは我々に困惑したり、迷ったり、結論を出せない道を歩むことでも大丈夫なんだということを示してくれているように思います。 みなさんの祝福を祈ります。 申命記17章8節~13節 マタイによる福音書18章15~20節 説教 平和の共同体の心得 「もめ事を治めるには」 共同体におけるもめ事は絶えません。これを解決する方法として裁判が上げられています。そして、申命記では「神に仕える祭司あるいは裁判人を無視して、勝手に振る舞う者があれば、その者を死刑に処し、イスラエルの中から悪を取り除かなければならない。民はみな、これを聞くと、恐れを抱き、もはや勝手に振る舞うことはないであろう」 これはある意味恐怖政治を示しています。極端な場合はISのようにサッカーを見た少年を公開処刑するなど権力者からの生命の破壊に結びつく結果にもなりうると思われます。しかし、神は十戒で「汝殺してはならない」という掟をしめし、イエスは赦しを説いていきます。こういうことによって人間の裁きは不完全であることを示されるように思います。 もめ事を治めるには人間の業では難しい。私たちはそれでいろいろ悩みます。自分の不甲斐なさに落ち込みます。しかし、主は、必ずや、最終的にはよき裁きを与えていくれる、そう信じて歩むことが、私たち共同体の心得でもあるように思います。 みなさまの祝福を祈ります。