2022年5月1日柴宿教会礼拝説教原稿
聖書 申命記10章1~22節 
      ヨハネによる福音書15章15~17節  
説教 平和の共同体の心得「み心が叶う、幸せな生き方」
日本基督教団鳴子教会気仙沼集会 小野寺清栄

【神の言葉に従う暮らしは幸いな暮らし】
人はどう生きることが幸せなのかと、私は、考えて暮らしています。聖書はそれを神の言葉に従うことだと言い切っています。最近興味をもっているスピノザもそういう考え方です。私たちが幸せに生きていく上で、本日の申命記では十戒が重要であること、ヨハネ福音書では互いに大事にし合うことが重要だということを述べています。この結論は苦難の中から生き抜いてきた方々の結論だと思います。この聖書の言葉が残っているということは絵に描いた餅ではなく、現実に実験してみて十分に結果が出せる事柄だということでしょう。
十戒を守り、互いに大事にする暮らしをする、ここに平和が生まれ、神の国が現れるのでしょう。これを幸いだと聖書は方っているようです。

【幸いな暮らしは神様のみ心】
幸せな暮らし、人の幸せは、実に神様のみ心なのだということも実は本日の申命記10章12-13節に書かれていることです。お読みします。
「イスラエルよ、今、あなたの神、主は求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、主が今日あなたに命じる戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」とあります。このように人が幸せになってもらうこと、それが神様のみ心、意志です。神様は十戒を石板に2回も書き込み、十戒を2回も与えましたので、人々が十戒を守り幸せになることは神様のかなり強い意志ということになると思います。

【神の言葉に従えない罪人はどうすればよいか】
では、罪人はどうしたら幸いになれるのか、十戒など掟や法を守れない罪人はでも幸いになれるのか、ということも13節~22節に書かれているのですが、結論からいいますと、神が人を幸いにしてくれているようです。お読みしますね。
「見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。 主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。 心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。 あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。 あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。 この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。 あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。」
とあるんですね。ここを読むと、もうこの地が天国であるかのようにも思えますね。神が私たちを愛してエジプトの苦難、抑圧から解放してくれた。そういう神の存在を否定する頑固なかたくなな心は包皮を切り捨てるように捨てなさい。神は偉大で恐れるべき神で、人を隔たり見ず、賄賂を取らず(これは不正をしないことだと思います)、孤児と寡婦の権利を守り(貧しい人々の権利を守ることだと思います)、寄留者を愛して食物と衣服を与えられると言います。エジプトに70人で下ったイスラエルの民を天の星の数より多くされたと神様が、アブラハムに誓われたことを果たしたという事を語ります。ですから、私たちを幸いにしてくれているのは神自身に他ならないと思います。気が付いたら幸せだったみたいになっているといいうことなのではないでしょうか。
本来は幸いな世界を不幸な世界にしているのが人間なのかもしれませんね。

【愛する対象は寄留者】
ヨハネによる福音書では、十戒や律法の戒めは愛し合うという一つの戒めにまとめられていますね。申命記では寄留者を愛しなさいというように、具体的に愛する人の対象を示しています。そうすると、寄留者のような人を愛するということが幸いな暮らしということになるのかもしれませんね。

【施設利用者は寄留者?】
私の経験で申し訳ありませんが、寄留者って主流じゃない人をいうんじゃないかと思うんですね。部外者とかいう感じの人で、不安で落ち着かない、頼る者がないような人たちですよね。この文明社会から取り残されている人。そういう人というのは、わたしがパートで行っている施設の利用者などはそうではないかと、はじめは思っていました。家族や地域からちょっと施設に入っていてねって言われるような存在ですからね。でも、お付き合いしていくうちに、施設利用者って意外と正直に自分の欲求をあれこれ訴えるんですよね。施設では人員の制限や設備の制限があり、なかなか利用者の希望を叶えることができません。でも、そうであっても利用者はちょっと話を聞いてあげただけで、感謝したり、満足さえしているのではないかと思うこともあります。落ちついているんです。不平不満は仕事がうまく進められない職員の方に多くあるような気がして、施設にいると、何か寄留しているのは職員の方じゃないかと思うこともあるんですね。

【寄留者とはだれか】
寄留者ということを更に考えてみますと、人間というものは、自然に寄留している寄留者ではないかとも思いますね。今日の聖書を読んでみますと、寄留者を愛するということが申命記では神の業のように思えます。自然への寄留者である私たちは自然から愛され、生かされているように思います。スピノザ的には自然=神ですので、私たちすべては神の中にしかいない、神の業に与っている、神から愛されているということになりましょう。

【まとめ】
そう考えますと、神の恵みはすでにあり、生きることは幸いであるということであるとも思います。神のみ心が叶う、幸せな生き方とは、既に与えられた、自分の生き方のことではないでしょうか。その恩恵に対するお返し、恩寵に対する感謝で、そういうことを動機に、それぞれの暮らしの環境や状況の中で、さらにそれを造り変えた方が良いなら造り変えつつ、暮らしを続けていくのが、神のみ心に適う人の幸いな生き方なのかもしれません。

【祈り】
神様
今日も礼拝が守れた恵みを感謝いたします。
主のみ心のままに私たちに幸いを与えてくださいますように導いてください。また、幸いに気付かせてください。
世界に平和と幸いをお与えください。特に戦乱の状態にあるウクライナとロシアに平和と幸いをお与えください。
柴宿教会を祝し、導いてください。
病んでいる方を癒やし、苦しんでいる人を助けてください。
この祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。
アーメン