聖書 歴代誌上17章1~27節
ヨハネによる福音書13章1~20節
説教 平和の共同体の心得「一方的な愛」

 神の愛は一方的だと言われています。太陽の如く悪人だろうが、善人だろうが関係なく命に良いもの、必要なものを一方的に現実世界に提供しているのだと思います。そういうことがないと人は生きていけないのでしょう。
 歴代誌17章にはイスラエルの王ダビデが自分はレバノン杉(高級建材)でできている家に住んでいるが、主の箱は天幕の下に置いたままなのでもっと立派な安置場所を作ろうと思い、ナタンと言う預言者に相談したことが描かれています。神はナタンに神のためにダビデが家を建てる必要はないと告げます。そして、神は「わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなるものに並ぶ名を与えよう。(歴代誌上17:7-8)」と語るのです。神からの恵みや恩恵は一方的に与えられるという事がここでも示されているように読み取ることができます。
 新約聖書は本日はヨハネによる福音書13章です。ここにはイエスが弟子たちの足を洗う場面が出てきます。これは、34節「互いに愛し合いなさい」というイエスの「新たな掟」に繋がる一連のストーリーの始めの出来事なのですが、イエスは一方的に弟子の足だけを洗います。ペテロは恐れ多いと思ったのか、「自分の足など決して洗わないでください」と言いますが、イエスは「もし、あなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言いました。するとペトロは「主よ、4足だけでなく、手も頭も」と要求しますが、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と語り、足だけを洗いました。ここには裏切り者のユダもいました。この個所からも神イエスの一方的な行動をみることができ、神の愛の一方向性を見出すことができます。そういうことから、互いに愛し合いなさいという事は一方向性の愛を互いに相手に注ぎ合いなさいということかと思います。
 三木清の人生論ノートの「幸福について」をyoutubeで聞きました。そこには相手を幸福にする最もよい方法は自分が幸福になることだと言っていました。他人のために命も含めて、何かを与える人は幸福だからできるのだと。なるほど、そうなのかと思いました。自分が幸福であったとき一方的な愛も生まれるのではないかと思いました。だから、私たちの神が私たちを一方的に愛してくれているということは、とても幸福な神様なのだからなのかもしれないと思いました。
私たちの神様は幸福の凝縮されている神様と思うと何か元気になってきますよね。裁きの神とか怖い神はちょっと苦手です。

みなさまの祝福を祈ります。