歴代誌上16章1~43節
マタイによる福音書13章1~17節
説教 平和の共同体の心得「幸いはイエスの話を聴くこと」

 私の経験上、罪を犯したと自覚すると教会の礼拝には出にくくなるものです。本当は、そういうときほど教会に行って牧師から赦してもらえるということを伝えてもらえると心が晴れて助かります。幸い私の指導牧師はそういう赦しの感覚を与えてくれて、神の赦しも同時に伝えてくれる方でした。長く刑務所の受刑者に神の言葉を伝えた教誨師(きょうかいし)だったことも関係しているかもしれませんね。信仰指導者は罪を赦してくれるという雰囲気のある人がいいと思います。

 さて、本日の歴代誌上16章には神の箱の前での儀式についてダビデの命令で行われるようになったことが記されています。それは、主をたたえて感謝をささげ、立琴やラッパやシンバルなど楽器付きで賛美することです(16章4節)。祈りと賛美を毎日行ったようです。これらのことを行った理由は、「主がイスラエルに授けられた律法に記されたことをことごとく守るためであった(16章40節)」とあります。十戒を含む神の言葉を聴き守るためであったと考えてもよいと思います。なんと素晴らしい信仰かと思います。この裏にはこうすることによってイスラエルの民が守られ、この世にとこしえに存続し得るだろうという歴代誌編集者の思想があるのでしょうけれど。  

 本日のマタイによる福音書13章には「種を蒔く人のたとえ」が記されています。多くの群衆が集まってきたとき、イエスは湖にあった舟に腰かけて話します。「種を蒔く人が種まきに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまった。
ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった。耳のある者は聞きなさい」というたとえです。「種」とは「神の言葉」のことです。神の言葉を聴いて悟らない者もいれば悟る者もいて大きな実を結ぶ人もいることのたとえですが、イエスはここで神の言葉を聞け、とはいいますが、悟ってよい実を結ぶものになれとは言わないのです。「聞きなさい」とだけ命じています。イエスは弟子たちに「あなたがたは目で見ているから幸いだ。耳で聞いているから幸いだ」(13章13節)とも語ります。イエスは重要なのは立派な実を結ぶ(立派な人になる)ことではなく、イエスの言葉を聴くことなのだと語っています。

 暮らしの中に神の言葉を聞く習慣を持つことはとても重要なことだと思います。ダビデも毎日律法を守るように賛美の時を儀式化しました。これは神の言葉を聞き律法を守るためです。わたしたちも教会で毎週神の言葉に触れる機会(礼拝や集会)があります。どんな人でも教会にいらして神の言葉に触れる習慣ができるといいのになあ、と思っています。幸いなことは、神=イエスの言葉を聴くことだと本日の聖書から受け止めたものですから。

 みなさまの祝福を祈ります。