歴代誌12章1~41節(朗読12章19節(旧約p645)
   エフェソの信徒への手紙2章14~22節(新約p354)
説教 平和の共同体の心得「平和があるように」

核兵器を持ちながら非核化を唱え、平和を唱えるような矛盾(私から見れば)を金正恩は笑顔で語っていますが、昨年まで核兵器攻撃の実験をしていた人が、よく、あんな演出ができるものだと驚いています。「平和」ということばは旧約聖書に出てきますが、新共同訳聖書では民数記25章12節「見よ、わたしは彼(アロンの孫)に平和の契約を授ける。彼と彼に続く子孫は永遠の祭司職の契約にあずかる。彼がその神に対する熱情を表し、イスラエルの人々のために、罪の贖いをしたからである。」が日本語の「平和」の訳語の聖書の初めての登場個所です。「平和・平安」のヘブライ語のシャロームは、聖書には創世記以来記述されていて意味には、ただの平穏無事ではなく、健康、長寿、繁栄、時には勝利まで含まれており、平和と救いが同じように使われるとのことです(教文館 キリスト教大事典p950-951)。新約聖書でも「平和」(ギリシャ語でエイレーネー)の意味は旧約聖書と同様に用いられているとのことです。「平和」という概念は人類が始まった時からあり、人はそれを知りながら、平和を実現できないでいるとも思えます。

本日の歴代誌上12章にはダビデがサウル王に追われて窮地に追いやられ、当時の敵ペリシテ人の領地に入り、ペリシテ人にうまくつけ込み、ツィクラグというところを領地にもらい滞在していたとき(サムエル記上27章)の出来事が記されています。イスラエルの各部族がダビデのもとに集まって来てダビデの勢力を増し、サウル王からダビデに王位が主の命令に従って渡されたという出来事です。そのとき、べニヤミン族(サウルの家系)とユダ族(ダビデの家系)の人々がダビデのもとにきて、その頭のアマサイに神の霊が降って言った言葉が19節「平和がありますように。あなたに平和。あなたを助ける者に平和。あなたの神こそ、あなたの平和。」です。ここに示された言葉は、神はサウルとダビデに、また、それぞれの部族間にも平和を望んでいたことの表明ではないかと私はとらえました。

本日の新約聖書エフェソの信徒への手紙ではパウロは自分の経験を通して、「キリストはわたしたちの平和である」と語っています。敵意という隔ての壁を十字架によって滅ぼし、双方を新しい人に造り上げて平和を実現したとも語りました。それは一つの霊(聖霊)により、聖霊によって人は皆神の家族として平和になるということを語っているようです。

人類が有史以来追い求め実現できないでいる「平和」。聖書には平和実現の希望がはっきり書かれています。「キリストは平和である。」と聖書は語り、復活のイエスも弟子たちに「平和があるように」と語ります(ヨハネ福音書20章19-23節)。さて、わたしたちは平和実現のためにどうすればよいのでしょうか?キリストの教えに耳を傾け、聖霊を受けていくことがどうも平和実現には鍵のようです。偉そうに言わせてもらっていますが、金正恩にはぜひここを知っていただきたいものです。南北朝鮮に、世界に平和がありますようにと祈るものです。

みなさまの祝福を祈ります。