歴代誌11章1-47節
マタイによる福音書21章1-11節
平和の共同体の心得「救いを待つ」
歴代誌は、ユダヤ人がバビロニア捕囚から解放され、エルサレムに帰還し、ヤハウェ神殿が再建され、祭儀が整えられたあたりの紀元前5世紀後半から4世紀前半に編集されたと考えられています(旧約聖書ⅩⅤ 歴代誌 p387,岩波書店,2001)。捕囚から帰還したイスラエルの人々がエルサレムの神殿礼拝を中心にイスラエル民族のアイデンティーの回復、国家の復興を目指して歴代誌を編集したと思われます。ダビデ王を理想の王とし、その子孫からイスラエルを再建し、ソロモン王時代のような軍事による栄華を極めた王国を実現する王の誕生を待ち望んでいたのかもしれません。それにはイスラエルの民すべてが主の御心に従うことが重要だと思っていたようです。ダビデやソロモンの時代の状態が今後のイスラエルの進むべき目標となったのだと思います。歴代誌の編集者はダビデやソロモン王の罪には触れず、神に従った王として描いています。そして、主の神殿をエルサレムに置き、礼拝や祭典を行うことが御心に従うことで、救いの道と考えたようです。祭儀を重んじるのが歴代誌から読み取れますが、それは途方に暮れる民には大きな安心、希望、救いだったと思います。本日の歴代誌はダビデの登場が描かれていますが、全イスラエルの王として優秀な武勲たちを率いている状態が示されています。エルサレムに強大な軍事力で侵略することが書かれています(当時はこのような侵略は正当なこととされていたのでしょう)。当時は植民地支配から脱するために選ぶ道としては人間的に考えて当たり前な考え方だと思います。
さて、その後、500年以上時はたちましたが、イスラエルの王国はローマ帝国の植民地状態になっていました。それでもイスラエルの民ユダヤ人はダビデの子孫の王の到来をエルサレムの神殿礼拝や祭儀を中心として待ってました。イエスが現れたのはそのような時でした。今日のマタイによる福音書にはイエスが救い主としてエルサレムに歓迎されて入場する場面が描かれています。しかし、イエスにはダビデやソロモンのような軍事的指導者や国王としての風貌はなく、「柔和な人」でした。イエスには軍事力も経済力もありません。ただ、「柔和な人」でした。そのただ柔和な人に、不思議にもこの時、多くの人々はこの人こそ、自分の王、救い主だと思ったのだと思われます。
人は自分の人生に救いを待つようになっているのではないでしょうか?軍事力や経済力に救いを求める時もありましょうが、そうではないと気付く人もいることを聖書は示しているようです。旧約聖書ではイザヤをはじめ預言者がいました。新約聖書では弟子たちやイエスに癒しなどを求めて近づいてきた人々、また、今日のマタイによる福音書に出てきたエルサレムでイエスを王として迎えた人々です。私はイエスを救い主と信じていますが、本日の聖書からは「柔和な人」が私の救い主になりうるのかなあと思った次第です。必要最小限の衣食住が与えられたら後は柔和な人がいてくれたらこの世に生まれて私は救われたと思えそうな気がします。この世にそのような時が来るのを待ちたいと思います。
みなさまの祝福を祈ります。