聖書 歴代誌下9章1~12節
ルカによる福音書6章20~23節
説教 平和の共同体の心得「幸い」
南米ウルグアイのホセ・ムヒカ大統領は「幸せ」について次のように語っています。
「私は、真新しいことは何一つ言ってはいません。昔からある思想を述べているだけです。富が幸福をもたらすと思わないでください。比較的豊かになると、失うことへの恐怖が生まれます。富を失うことへの恐れが・・・。そうするとお金があっても、幸せを感じられません。失うことを恐れるからです。これがまさに中流階級の苦悩なのです。目標に向かって前進し戦う者は、恐れるものがないのでとても幸福です。なぜなら希望があるから。幸せであるということは、生きていることに心から満足していることです。毎日太陽が昇るのを見て感謝する。幸せとは、人生を愛し憎まないこと。でもそのためには大義が必要で、情熱を傾ける何かが必要なのです。」(2016年4月8日フジテレビ放送「世界でいちばん貧しい大統領ムヒカ来日緊急 特番~日本人は本当に幸せですか?~」より)
本日のタイトルは「幸せ」です。旧約聖書の歴代誌下にはイスラエル史上最高の栄華を極めたのソロモンのもとにシェバの女王の来訪が記されています。どこの国の女王かははっきりしませんが、「ソロモンとシバの女王」という映画になったり、レーモンドフェイブル楽団の演奏で「シバの女王」は聞いたことはあると思います。そのシェバの女王がソロモンの名声を聞きつけ、難問をもってソロモンを試そうと、大勢の随員と香料、多くの宝石をらくだに積んでエルサレムにやってきました。シェバの女王はあらかじめ考えていた質問をソロモンに浴びせましたが、ソロモンはそのすべての質問に解答しました。シェバの女王はソロモンに言いました。「知恵のある王の民、家臣はなんと幸いな事か。神があなたに公正と正義を行わせるからです(歴代誌下9章5~8節)」と。知恵や公正や正義と共にある国民が幸いだと語るのです。
さて、本日の新約聖書ルカによる福音書には、「幸いと不幸」についてのイエスの言葉が書かれていますが、それは、次のような事です。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子(救い主)のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、天に大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
ここは、貧しい人々が神の国に入るのは幸いだということを語っていると思います。それは、例えば、今飢えている人々が満腹するものとなり、今泣いている(抑圧されている)人々が笑うようになることが幸いだと言っているのだと思います。そういうことを言ったり、していると人々から追い出され、ののしられ、汚名を着せられるが、それもいつか報いを受ける希望があるということを言いたかったのでしょう。さらに、不幸についても付け加え、富んでいる人々を不幸呼ばわりします。ここは富に執着することから、その富で貧しい人々が救われるように用いないことで、それがやがて、飢えや泣く(抑圧される)ことに繋がるということに不幸だと書かれているように私は思います(幸いと不幸を文体的に対称的に書かれていて、言語的遊び心を思わせる個所でもありますが)。
以上から、「幸せ」を考えてみますと、ウルグアイの大統領ホセ・ムヒカの冒頭の言葉は本日の聖書個所から考えられる「幸い」と一致するものかなと思います。それは富に固執する生き方ではなく、飢えている人々が満腹し、抑圧されているものが解放される活動に富を用いること、シェバの女王の言葉を借りれば、「神が与える知恵や正義や公正」を知ったり行ったりするために富を用いる生き方が「幸い」ということになりましょう。ムヒカは大義名分が必要だということを言っていましたが、それもこれらのことなのだと思いました。
みなさまの祝福を祈ります。