聖書 歴代誌下29章~32章、コリント信徒への手紙一2章1~16節

説教 平和の共同体の心得「神秘としての神の知恵」

生きているということは神秘であるとは誰しも思うことでしょう。私のファンの安冨歩さんもそう語り、学問も研究も教育も芸術もスポーツも暮らしすべては「生きる」ことに結びつかなければ意味なしと言い切っています。本日のタイトル「神秘としての神の知恵」はコリント信徒への手紙一2章7節から取りましたが、これは「生きるための神の知恵」ということになりましょう。

どんな知恵だったか考えてみます。本日の歴代誌下29章から32章ではユダの王ヒゼキヤがヤハウェ信仰の祭儀をエルサレムで全イスラエルに呼びかけ忠実に行ったことが描かれています。あまりやりすぎて祭司が足りないくらいでした。祭儀を行うことが私はここでは神秘としての神の知恵、生きるための神の知恵であると思います。歴代誌時代は戦国の世です。その中で祭儀をするということは戦争放棄を意味し、それによって人々の命が守られることなのではないかと思います。そして、ここには当時の最強国アッシリアに攻められたことが記されますが、ヒゼキヤが預言者イザヤと共に天に助けを求めると救われたということも示されています。戦国の世では国家間では非戦と祭儀執行が生き残る知恵であると聖書は示しているようです。

さて、新約の時代になると、祭儀が人々を抑圧し、人の命を破壊するような暴力と化していました。律法を守らないと罰を受けるような具合になっていました。本来抑圧から解放されるための律法が逆に人の命を抑圧する律法へと変わっていました。イエスはそれを指摘して人が抑圧から解放されて神と共に自由に生きる道を提唱していきましたが、それに不満を持つユダヤ教指導者や庶民によって十字架にかけられ殺害されました。本日のコリント信徒への手紙には、パウロはこの十字架につけられたイエスキリストのみを知ること、そこに「神秘としての神の知恵」を見出したと書かれています。そして、それは“霊”によると、ちょっと理解辛い言葉を用いて説明しています。直観みたいな感じ、神の言葉を聞くというような体験だと思います。「十字架につけられたイエスキリストを知ること」これで人々の抑圧された命が解放され、自由を得るのか、不思議ですが、パウロはそういいます。

わたしは自分の体験を申し上げれば、確かにパウロの言っていることは間違いじゃないと思います。不思議に自分の命が守られていると実感でき、さまざまな自分への不都合、自分の不誠実や煩悩、欲望、それに対する自己嫌悪など共にありながら、何か生きていることに喜びや幸いの気持が与えられているような感じになることもあります。やはり、十字架につけられたキリストを知ることは、「神秘としての神の知恵」=「生きるための神の知恵」なのだと思います。信仰的体験なので説明は難しいですね。体験した人じゃないと言えないのでしょうから。すみません。

みなさまの祝福をお祈りします。
良いお年をお迎えください。