聖書 歴代誌下1章1~30節(旧約p668)
ヨハネによる福音書14章1~14節(新約p196)
説教 平和の共同体の心得「主に願う」

 最近、私が注目している学者のファンに、安冨歩さんという経済学者で思想家がおります。彼の生い立ちについて彼の著書「生きる技法」より掻い摘んで話させていただくと、彼は条件付きでしか認めてくれないような母親に育てられたらしいです。京都大学を卒業後住友銀行に入り、バブルの時代に死にそうなくらい働かされたそうで、これ以上働かされたら、死ぬかと思ったらしく3年くらいで退社。その後、研究者の道を歩み、東大の准教授になり、妻と2人の子を授かりますが、妻のモラルハラスメント(精神的隷属状態と彼は話す)に遭い、これ以上結婚生活をしていたら5年以上生きられないと思い、離婚。その時、両親特に母親が徹底的に離婚を妨害してくることに深いショックを受けたといいます。そして、長い軋轢の末に、母親が自分のことを愛してなどいない、という恐るべき事実に気づき、何度も自殺衝動に駆られていました。彼は両親や親戚との縁を一切切り、友を見出し、支えられて生きていくという道を歩んでいるのです。
その彼がいうことには、この世界は語りえるもの(科学的に明らかな領域)と語りえ無いもの(科学では明らかにされない神秘の領域)があり、語り得るものについては語り、語り得ないものについては祈るというような領域で、科学を進める上では、語りない領域があるということを考慮して進めるべきだと話しています。彼の経歴を知り、最も愛情関係で結ばれるべき母親や妻から受けたハラスメントでどんなにか絶望していたのだろうと胸が締め付けられる思いでいっぱいです。彼は愛される人が大切にされる人間関係のできる過程、あるいはそういう関係性の中で生きていくことに神秘を感じているのではないかと思いました。彼は、生きるにはどうしたらいいのかをテーマに、「生きる技法」という本を2011年に出しています。

本日の説教のタイトルですが、「主に願う」というタイトルです。これは安冨の世界観から言ったら神秘の領域の話です。本日の歴代誌の個所にはソロモン王が王に付くにあたり主が「何でも願うがよい。あなたに与えよう」といいます。ソロモンは「今このわたしに知恵と識見を授け、この民をよく導くことができるようにしてください。」と語ります。すると神は語ります。「あなたはこのことを望み、富も、財宝も、名誉も宿敵の命を求めず、また長寿も求めず、わたしがあなたをその王として立てた民を裁くために、知恵と識見を求めたのだから、あなたに知恵と識見が授けられる。またわたしは富と財宝、名誉もあなたに与える。」と神から褒められ祝福されました。ソロモンは民との良好な関係を神に求めたのだと言えると思います。 

イエスの時代になると、本日のヨハネの福音書では、イエスは自分を「道であり、真理であり、命である」神であることを告げ、「イエスの名によって願うことは何でもかえてあげよう」というのです。イエスの名によるとは、「命」を守ることが条件と言いますか、前提といいますか、そういう「生きる」上でのということでしょう。つまり、ここでイエスは、「人が生きることに関しての願いは何でも叶える」という宣言です。これは、人が生きていくには、神に願わなくてはば生きていけない、或いは、生きていることは、神が人が生きたいという願いを叶えているからということではないでしょうか?

私たちは、さらに、主に願うことによって、何でも与えていただけるようです。何を願いますか?富?財宝?名誉?知恵や識見?。
私は、冨歩さんが求めていた、人々を大切にしあう人間関係とかそういう友、それを与えてくださいと神に願いますね。そして、みんなそういう願いを捧げてくれるといいのになあとも思ってしまいます。

みなさまの祝福を祈ります。