聖書 歴代誌下10章1~1節19
マルコによる福音書1章9~11節
説教 平和の共同体の心得「脱ハラスメント」

私の最近のファンである安冨歩の話なりますが、彼の研究は生命(創発や創造性など)を滅ぼす暴力の生じる原因とその排除にあると言っています(「神秘的な合理主義」から「合理的な神秘主義へ」youtube2013年12月25日に公開)。彼は科学では生命現象を解き明かすことは困難と考えたかららしいです。これはもう神秘というしかないというのです。しかし、彼は、この生命を滅ぼす暴力については科学的に解き明かすことができると考えたそうです。暴力というのは戦争であり、殺傷であり、虐待、いじめ、セクハラ、パワハラなどといわれているハラスメントであると私は思っています。つまり、脱ハラスメントを彼は研究し、世に知らしめんとしている人であるという事になりましょう。彼はまた、脱ハラスメントの方法として、孔子や親鸞、ガンジーなどの東洋思想からそれぞれ個人が本来の自分であるように自由に生きるということのみが唯一の方法だと考えているようです。ハラスメントを無くそうとする時に「ハラスメントを無くせ」と声高に叫び、ハラスメントする人を裁き、排除するのはそれも暴力になるという矛盾が生じることに気づいたからです。安冨は今女性装をしていますが、そうすると落ち着くということなのです。これも安冨流に言えばハラスメントを無くすための戦略でもあるようです。

私の神はハラスメントはしない神です。しかし、聖書には人を殺傷する神が描かれています。仙台市にある尚絅(しょうけい)学院大教授の上村静という聖書学者は聖書のある一面にある暴力性や排他性を指摘してます。本日の歴代誌下10章にもイスラエルの王レハブアムが民の過酷な労働、重い軛を軽くして欲しいという願いを無視し、さらに重い軛を負わせる場面が出てきます。レハブアムは民にこう言いした。「父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしは更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる。」(こういうことでイスラエルは分裂し滅びの道に向かうのですが)。さらに聖書は「こうなさったのは神の計らいによる」と加えています。今の私にはこれは驚きです。神はハラスメントを自分の民にするのか?と疑問に思ってしまいます。以前の盲目的信者の私ならば神様だから仕方ない、何か訳があるのだろうと思ってしまっていたのではないでしょうか。更に神がハラスメントしているんだから、御心のためのハラスメントもあり得ると解釈する人もいると思います。実際、キリスト教は異端排除や魔女狩りなど神の名によってハラスメントをしてきた歴史があります。人の心と体に苦痛を与え、滅ぼしてきた歴史を有しています。これは今の私の神のすることではありません。ですから、聖書に出てくる殺傷したり、精神的に抑圧する神も今の私の神ではありません。こういうことから考えて、今の私は聖書を神について人が書いた文学作品として読んでいます。

本日の新約聖書にはイエスの悔い改めの洗礼の場面が描かれています。イエスはここで自分が罪人であるということを自覚しています。神であるイエスはなぜ宣教活動に入る前に洗礼を受けなければならなかったのか、このことを私なり考えますと、この時点で人であるという自覚しかないイエスは旧約聖書を通して神について多くを学んでいたことでしょう。本日の歴代誌下の記述のように神が人に暴力を振るうような記述もあり、イエスも含め人々は神には暴力もあり得るという考え方だったのだと思います。しかし、イエスは、神は一切暴力は振るわない神であると聖霊を受けて(神秘体験を通して)知ったのだと思います。ですから、今まで旧約聖書に記されている神を誤って信じていたと知ったイエスは、悔い改めの洗礼を受け、本当の神、非暴力(愛)の神に仕え、非暴力(愛)の世界=神の国を宣教する準備をする必要があったのだろうと思います。(ここは全くの私見ですが)。

こうして考えてみますと、神は非暴力の神、愛の神として太古より存在していましたが、人が勝手に神について記述した聖書には暴力を振るう神として間違った記述も含まれてしまい、人々は誤った神を信じてくるようになってしまっていました。イエスは神を聖書ではなく、聖霊(神秘)によって知り、本当の神を伝える活動を行っていったということです。神は非暴力であり、この世を非暴力の世にすることをご計画されているということですね、おそらく。脱ハラスメントこれこそ現代の私たちの道だったのかと改めて気づかされた次第です。

それにしても、安冨歩は、イエスの示した道と同様の道を示してくれていると思い、感心してしまっています。今後とも脱ハラスメントを目指す私の暮らしにおいても参考にしていきたいお一人です。

みなさまの祝福を祈ります。