サムエル記上3章1節~4章1節、ルカによる福音書11章27節~28節
説教 平和の共同体の心得「真の幸い」

私が高校の時の話です。東大を卒業したという現代国語の教師に、授業中、何か人間の幸福どうのこうので話が進んだとき、誰か生徒が「先生、人の幸福って何ですか?」と質問をしました。私たちはなんて答えるか、その時ばかりはきっとみんな集中して聞いていたと思います。その時、その教師の答えは、「幸福ってこうだっていう決めつけ方はどうかと思う。それこそ問題であって、今の私には分からない。幸福になりたいとかよく言うけど、言っている人って幸福って何だか分かっているんだろうかと思う」というような答えだったと思います。天下の東大卒の先生が幸福とは分からないと言った。確かにそう言われればそうだ、私自身も幸福とは何か分かっていない。私はそれ以来、「幸福」という言葉をある意味で使わなくなっていきました。「幸福になる」とか「幸いになる」ということは結婚式のお祝いの言葉くらいに使いますが、本当に自分が幸福になるとは何かは謎となっていました。

さて、本日の聖書の箇所は、サムエル記の方は、神の呼びかけに答えるサムエルが、神の言葉を受け取り、取り次ぐ預言者として成長していく様子が描かれています。「主はみ言葉をもって、シロ(当時のイスラエルの民の宗教的政治的中心地)でサムエルにご自身を示された。サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ」(サムエル記3:21-4:1)とあります。神の言葉を取り次ぐ重要性が示されています。新約聖書のルカ11章27節から28節には次のようにあります。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群集の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。』」

ここ読んで私は、あれ?ここに「幸福」について語っているんじゃないかと気づきました。幸福は「神の言葉を聞いて、守ること」だと。

とても嬉しくなりました。聖書があることも、教会があることも、礼拝で説教があることも、旧約聖書で神の言葉に従うことが祝福されて、従わないことには祝福されないことも、いっぺんに解けたように思いました。自分がこうして礼拝をやっていることにも「幸福」に繋がることであろうということが示されたから。高校生の時の謎が解けた多思いです。「幸福になりたい」と実は私は漠然と思い続けていたのでした。それが、「神の言葉を聞いて、守ること」なんとここにあったのです。これからも、今の自分に与えられる神の言葉を尋ね聞き、守っていきましょう。  

みなさまの祝福を祈ります。