創世記29章31節~30章24節 使徒2章1節~13節 平和の共同体の心得―隔ての壁を取り除く- 最近楽天が調子が良いです。とてもいいことです。で、思ったのですが、自分という人間はなんと心変わりのする、いい加減な人間だということです。楽天初めの頃は負けてばっかりいました。そのとき私は星野監督やめろ、と思っていました。しかし、最近、楽天が上がってきました。そうしましたら、「星野監督、さすがだな」というように自分に都合の良い事が起こるとその人ひいきになり、悪い事になると排除したくなる、そういう気持ちが自分の心の中にあるということが分かったのです。 私たちは、人と人の関係の中に生きています。親子、兄弟、家族、知人、友人、恋人、夫婦、職場での雇用被雇用者関係、上司部下の関係、組織での指示されたり、指示を受けたりする関係、師弟関係、病院などで治療する人される人、支援される人する人、介護される人する人、その他サービスを受けたり与えたり、いろいろな関係があります。円滑に暮らすには、関係が仲良くお互い尊敬しあう感じだと良いと思うのですが、なかなかそれが上手くいかないと思います。憎みあったり、いがみ合ったり、裁きあったり、避けあったりすることもあります。そういう場面に出くわすと本当に私は意気消沈してしまいますが、自分の心の中にはそういう気持ちもあるということは否定できません。 本日の旧約聖書の箇所は、ヤコブの二人の妻とその子どもの話です。レアとラケルのねたみや嫉妬のしあい、子供の事でもめている。ラケルは自分に子どもが出来ないことを何とかしようとします。ヤコブに言うわけです。「わたしにもぜひ子どもを与えてください。あたせてくださらなければ私は死にます」と命がけで迫ります。ヤコブは怒って、言います。「私が神に変われる徒と言うのか。お前の胎に子どもを宿らせないのは神ご自身なのだ」と。 今日は聖霊降誕日ペンテコステを記念する礼拝です。この日、部屋に閉じこもっている信徒達に聖霊が注がれて、いろいろな国々の言葉で神さまのことが語られていきます。ペトロたちは主イエスが言われたとおり、エルサレムということろで神の啓示を待っていました。そしたところ今日のことが起こりました。聖霊に満たされ霊が語させるままに他の国々の言葉で話しだした、というのです。 外国の言葉というのは私たちの意思疎通をコミュニケーションを難しくしています。それが取り払われて、いきます。隔てがなくなっていくわけです。 そのようなことをさせたのが、聖霊であると言うこと,聖霊に満たされたということ、であったと思います。さらに、聖霊が語らさられるように語ることでありました。 隔ての中にあっては神さまのことはなかなか伝えられません。しかし、聖霊に満たされるようになることで、隔てがあってもそれを亡くすかのようにできることが、今日の聖書がいいたいとことだと思います。そのような状態で人は平和にいたるのだと思います。平和を期待できるのだと思います。永遠にわたしたちは生きる事が赦されている、イエスの十字架によって救われた、ということを述べ、平和実践者となれるように思います。 世には喧嘩や訴訟が耐えません。仲直りや平和は無理かとも思いますが、聖霊を受けたときには、仲直り平和が実現する希望に預かる事ができと思います。