創世記28章10節から22節 ルカ20章27節から40節 神の家で過ごす ベテルということばを聞いた事があるでしょうか。 北海道の浦河にベテルの家、という日本基督教団の教会と関わり、発展していった精神障害者の会社があり、日高昆布などの地元の海産物を扱っている会社で年商1億以上を売り上げているそうです。 この会社が、ベテルの家、といいます。 「ベテル」という由来が今日の聖書に出てきています。 ヤコブが名づけた「ベテル」。 ヤコブという人は、生れる前から兄と争い、生まれるときは兄の踵を掴んできて、生れた後は、兄の調子の権利を奪い、さらに、アブラハムが与えられた神からの祝福を奪い取った、人です。欲しいものは、策略を仕組んでも獲得する、欲張りなヤコブ。このヤコブが名づけた名前です。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の子息はあなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ず、この土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束した事を果たすまでは決して見捨てない。」この世で成功を望む人にとっては興味深いことかもしれません。 しかし、ここ、ヤコブの今いる所は、非常に厳しいところなのです。石の枕で過ごしたところなのです。人のものを奪い、争って生きる事には厳しさが伴う事、自業自涜に陥る事はこの世の摂理でもあるようです。 ヤコブという人間は、この世の世界は自分の力で勝ち取っていく、権利や祝福や土地を獲得していく生き方をしてきた人であると思われます。 ミカ書にはヤコブの罪を告発しているかのように預言されています。3章1節―3節ですが、「私は言った。聞け、ヤコブの頭たち イスラエルの家の指導者たちよ。正義を知ることが、お前たちの務めではないのか。善を憎み、悪を愛する者 人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎとるものたちよ」などと言われているのですから・・・ そして、そのようなヤコブは、神には、自分の旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神になられるのなら、そのようにしてくれたときに、神の記念碑を立て、捧げものを十分の一をささげるというように、語っています。神の願望を叶えたり、問うということより、自分の願望があり、それを叶えたい、それを叶えるために神を利用する、と思えるような、人だったように思えます。 そういう人の人生、神の意に反逆したり、自分の願望を叶えるために神を利用するような人の人生を今後創世記では扱っていくように思いますので、見ていきたいと思います。そして、わたし達が神と共に生きるとは、どうすることなのかを考えていきたいと思います。 神が、そのようなヤコブに夢で顕われます。その夢が、「先端が天にまで達する階段が血に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下りたりしていた。」これは「ヤコブの梯子」といいまして、雲間から光が差し込んで、光線のように見える風景をヤコブの梯子、というようですが、光が遮られている雲間から差し込む、ということで、天の光が差し込む、神が罪の世界に注がれている、主がこの世、神を否定する世に関わっている、というようなイメージを思い浮かべる事がわたしにはできてしまいます。 今日の新約聖書でも復活を信じないサドカイ派の神学者に現れます。 つまり、自分の考え方を一番重要であり、神様の教えを否定したり、神様を蔑んだり、神に挑んでいくような、人間に、神は顕われ、祝福するといってくれていると思われるのです。 ヤハウエイの神、イエスキリストの神を信じる信仰者の人生というのは、まさにこの葛藤に生きる事ではないかと思います。人間は自分の力で何とかしてすべてを獲得していきたいと思う性をもっている。これは、どうしても拭い取る事ができない。しかし、くすしくも、神はその言うことの聞かない、人間と共に生きていて、常に、守り、導いている。神と共に生きることができるように、永遠の命という神と同じ命を与えるために、十字架にまでついたのです。おそらく、神はわたしたちを神と同じような命を与え、共に生きることができるようにしてくださったのです。もう、いま、すでに、神の家に我々を住まわせてくれているようなものなのです。ヤコブはそれに気づかされたのだと思います。わたしたち信仰者もそれに気づくものであり、神を否定しつつ、背きつつ、言いつけを守れない、罪人ではあるけれども、しかし、その神の存在に気づける特権を与えられた者、神の存在の重要性に気づける特権を与えられた者、神の愛、敵を愛する愛のもっとも重要な事に気づかされた者、それがイエスの十字架であることに、あるいはそういう神がなんとなくいるということに、気づける特権を、聖霊によって与えられた選ばれたものであるのでしょう。 ですから、神が、神に反逆する人々、私と共にいるということに、聖霊によって気づかされた我々は、世にそのことを伝える役割、福音を伝えるという役割を託されているのだと思います。我々は神の家にいるのだということを。この世、この宇宙は神の家であるという事を、気づき、伝える役割を与えられているのではないでしょうか。 このような神、イエス、キリストが、わたし達と一緒にいてくれる。どんなに神に反逆しようとも、神は共にいて下さる、私たちは、もう、神の家族とされているのです。私たちはベテルに住んでいます。なんと喜ばしいことでしょう。 この喜びをもって、今、東日本大震災で苦しんでいる方々をも、イエスキリストが共に苦しんで十字架についている神の家族、私たちの神の家族、イエスキリストに近い人であるとも思い、歩んでいきたいものです。