創世記28章10節から22節、ルカ21章7節から19節 どんなことがあっても希望が与えられる 福祉施設で起こる問題 ある障碍者施設の問題の渦中にいるのですが、施設は、端的に言えば、利用している方々へのサービスの場なのですが、サービスするというより、職員の仕事のしやすさを優先に考えてしまうことがあり、それを正当化してしまう、あるいは、巧みに利用者の為であるがごとくに説明されることもあるのではないか、ほんとに狡猾だなと思われることもあります。また、これもある人から風のうわさで聞いたんですが、福祉施設の施設長が事務長から嫌がらせを受けて悩み、ついには、病気で倒れてしまったということがあったらしいです。サービスも福祉も人がより良く生きることの活動であるはずです。そういう場が人を自分のためだけ、何か間違った生き方、崩壊、破壊へと向かう、生き方、生活のありようになっていっているように思えてしかたないことを私は経験したり、あるいは知っています。 素晴らしい福祉施設 ベテルということばを聞いた事があるでしょうか。 北海道の浦河にベテルの家、という日本基督教団の教会と関わり、発展していった精神障害者の会社があり、日高昆布などの地元の海産物を扱っている会社で年商1億以上を売り上げているそうです。 この会社が、ベテルの家、といいます。 「ベテル」という由来が今日の聖書に出てきています。 ヤコブが名づけた「ベテル」。 ヤコブという人は、生れる前から兄と争い、生まれるときは兄の踵を掴んできて、生れた後は、兄の調子の権利を奪い、さらに、アブラハムが与えられた神からの祝福を奪い取った、人です。欲しいものは、策略を仕組んでも獲得する、欲張りなヤコブ。このヤコブが名づけた名前です。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の子息はあなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ず、この土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束した事を果たすまでは決して見捨てない。」この世で成功を望む人にとっては興味深いことかもしれません。 しかし、ここ、ヤコブの今いる所は、非常に厳しいところなのです。石の枕で過ごしたところなのです。人のものを奪い、争って生きる事には厳しさが伴う事、自業自涜に陥る事はこの世の摂理でもあるようです。 ヤコブという人間は、この世の世界は自分の力で勝ち取っていく、権利や祝福や土地を獲得していく生き方をしてきた人であると思われます。 ミカ書にはヤコブの罪を告発しているかのように預言されています。3章1節―3節ですが、「私は言った。聞け、ヤコブの頭たち イスラエルの家の指導者たちよ。正義を知ることが、お前たちの務めではないのか。善を憎み、悪を愛する者 人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎとるものたちよ」などと言われているのですから・・・ そして、そのようなヤコブは、神には、自分の旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神になられるのなら、そのようにしてくれたときに、神の記念碑を立て、捧げものを十分の一をささげるというように、語っています。神の願望を叶えたり、問うということより、自分の願望があり、それを叶えたい、それを叶えるために神を利用する、と思えるような、人だったように思えます。 そういう人の人生、神の意に反逆したり、自分の願望を叶えるために神を利用するような人の人生を今後創世記では扱っていくように思います。そして、わたし達が神と共に生きることにも、どうようのことのゆに私は思います。 神が、そのようなヤコブに夢で顕われます。その夢が、「先端が天にまで達する階段が血に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下りたりしていた。」これは「ヤコブの梯子」といいまして、雲間から光が差し込んで、光線のように見える風景をヤコブの梯子、というようですが、光が遮られている雲間から差し込む、ということで、天の光が差し込む、神が罪の世界に注がれている、主がこの世、神を否定する世に関わっている、というようなイメージを思い浮かべる事がわたしにはできてしまいます。 今日の新約聖書ルカによる福音書21章を見ますと、終末の徴が書かれてます。これは、前を見ますと立派な神殿が崩壊するときをイエスは語っているようです。人間が神になろうとした行為が壊れることを語っていうように思います。 惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『ときが近づいた』とか言うが、ついて言ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐに来ないからである。」そして、さらに言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 しかし、これらのことがすべておこるまえに、人々はあなた方に手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張っていく。それはあなたがたにとって証をする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、親族、友人にまで裏切られる。中には殺されるものもいる。また、私の名のゆえにすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本もなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかちとりなさい。 本日の聖書の箇所箇所は、罪人である人間のとる世の歩みと神の関わりを話してくれているように思われます。現実の生活に起こっているうまくいかない問題を考えた時に、そうなんだよなあ、納得する箇所でもないでしょうか?そして、うまくいかない問題は、ヤコブの生き方、つまり、自分の力、人間の力で、神さえをも自分の思いを実現するための道具として利用した暮らしを立てていくことで、もたらされたものではないかと思うのです。 ヤハウエイの神、イエスキリストの神を信じる、ヤコブや弟子、わたしたち信仰者の人生というのは、葛藤に生きる事ではないかと思います。人間は自分の力で何とかして、時には人を傷つけたり、殺すことさえして、暮らしにかかわる、すべてを獲得していきたいと思う性、欲望をもっている。これは、どうしても拭い取る事ができない。しかし、くすしくも、神はその言うことの聞かない人間と、共に生きていて(ヤコブの夢の天の梯子、イエスの十字架、聖霊と表現あれていることで)、常に、守り、導いている。おそらく、神はわたしたちを神と同じような命を与え、共に生きることができるようにしてくださったのです。もう、いま、すでに、神の家に我々を住まわせてくれているようなものなのです。ヤコブはそれに気づかされたのだと思います。わたしたち信仰者もそれに気づくものであり、神を否定しつつ、背きつつ、言いつけを守れない、罪人ではあるけれども、しかし、その神の存在に気づける特権を与えられた者、神の存在の重要性に気づける特権を与えられた者、神の愛、敵を愛する愛のもっとも重要な事に気づかされた者、それがイエスの十字架であることに、あるいはそういう神がなんとなくいるということに、気づける特権を与えられた選ばれたものであるのでしょう。それだけに、自分では御心に適わないことをしてしまう罪人であることにも気づかされ、悩むものでもあります。 さて、この救い主の存在に気付いたものがとる道はどういう道か、というのが私たちのこれからです。 内村鑑三は人の生き方を4つ上げています。 一番、悪い生き方 悪いことをしてこの世の人々に愛される 悪いことをしてこの世で憎まれる 良いことをしてこの世の人々に愛される 良いことをしてこの世の人々に憎まれる これが最高の生き方だと語りましたが。 そして、それでも、神様はそういうわたしたちに、希望、を与えてくれるというのです。信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残るとパウロも第一コリント13:13で語っている通りです 神が、神に反逆する人々、いろいろな歩みをとる私と共にいるということに、聖霊によって気づかされた我々は、世にそのことを伝える役割、福音を伝えるという役割を託されているのだと思います。我々は神の家にいるのだということを。この世、この宇宙は神の家であるという事を、気づき、伝える役割を与えられているのではないでしょうか。 このような神、イエス、キリストが、わたし達と一緒にいてくれる。どんなに神に反逆しようとも、神は共にいて下さる、私たちは、もう、神の家族とされているのです。私たちはベテルに住んでいます。なんと喜ばしいことでしょう。 この喜びをもって、今、苦しんでいる方々をも、福祉施設で自分のために利用者を利用している狡猾な職員も、福祉関係で嫌がらせをするような事務長も、イエスキリストが共に苦しんで十字架についている神の家族、私たちの神の家族、イエスキリストが十字架につくまで愛された人であるとも忍耐して思い、歩んでいきたいものです。その先にかならず、希望があることを信じて。