創世記26章25から35節、ルカ23章36から43 節

苦難から恵みへ

イエスの救いは定められた救いです。主イエスの御心に適うものが救われます。

わたしたちの暮らしは震災に大きく影響を受けています。不安です。
なぜでしょうか? それは人間がごく小さき存在であるからでありましょう。不安・・・むしろ、これが人間の本当の姿にほかならないのではないでしょうか? いと小さきもの、これこそ人間そのものであり、それを支える主がおられなければ、存在し得ないようなものなのかもしれません。イエスの御心にかなうものとは、不安な人々、自分には何も出来ないと思う人、人に迷惑ばかりかけていると思う人、そういう人なのだと思います。

この小さき者に救い主が共にいることに気づく時、わたしたちは信仰者となり、どのような困難をも乗り越えられると信じられ、へこたれません。希望をもって生きることができるのです。信仰者とはいと小さきものでありながら、全知全能神が共にいるということを信じ、また、苦難から恵みへと変える神の働きを具現化できる人間でもあると思います。

本日の旧約の場合、アビメレクというぺリシテ人(軍備の強大な国の王)が、イサクが神と共にいるということに、気づかされ、平和的共存をお願いしにイサクのところに来て、平和協定の契約を結ぶということが示されています。

新約の聖書の場合は、イエスの十字架上の話ですが、2人の例が示されています。一人の例の場合は次のように解釈します。人が絶体絶命のとき、もう終わりだと思うとき、人が堕落しきって立ち直れないと思ったとき、人がそういう場面に状況にいるとき、それでも。イエスは救うということです。
そして、もう一人の例の解釈は、イエスを信じた場合は、その人が生きている間にイエスから救いの宣言、死んでも復活する、楽園にいることを知らされる、ということです。

神は苦難から恵みと導く神です。

未曾有の災害をここ気仙沼地方、三陸地方、東日本はうけました。いや、これは、もはや一地域の問題ではなく、日本全国、全世界の問題です。
わたしたちは弱い人間であることをもっともっと自覚してよいのではないでしょうか。そして、創造主の神イエスの、弱くさらに堕落した罪人であるわたしへの救い、その存在に今気づく必要があるのではないでしょうか? そして、敵を愛せという、わたしの神の指示に喜んで従い、今は、震災で苦しんでる人への支援を祈りをもって捧げてまいりましょう。この苦難が恵みへと変わることを私たちは目の前にすることができるでしょう。祈ります。